ゆめ芝居 それがしの申しますことひと通り・・・

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私のキャリア16 若者が風を変える

私が、どうやって広報という仕事に行きついたのかです。
時代の流れ、人のつながりが大きいです。

私は、もともと総務畑でスタートしました。
前にも書いたように、新しい会社で自分らしい仕事をしようと決めていましたから、担当する仕事ごとに、あれこれ変化をしかけました。

時代は大きく変わってゆきましたし、会社も伸びていた時期で、新しいチャンスがまわってきました。
思い返しても、いろいろできたものだと思います。

例を挙げると、
デスク、チェアをグレーから今風のものに入替
会議室の家具を、折り畳みテーブルとスタッキングチェアに入替
ワードプロセッサ(まだパソコンではなく専用機)の普及
本社ビルの増築、などなど。

総務だからやれたことばかりです。
もちろん上司が認めてくれたおかけでもあります。

担当した仕事の中で、何かを変えようと思えば、それなりに勉強は必要です。
それは本で学ぶだけでなく、外の世界を見て歩くことも含めての「仕込み」と言えるでしょう。


さて、30代半ばのある時、同年代のH君が、休眠中の社内報をリニューアルして出すことを手伝ってくれないか、と言ってきました。
当時、創業者のジュニアが次の経営者として入ってきて、彼はその秘書のような立場でした。

ジュニアも同年代。
会社に停滞感の漂っている時でしたので、彼としても、何か空気を変えようとしていたのかもしれません。

ジュニアが発行責任者で、私とH君が自由に企画し、かつ書きました。
新しい感覚の社内報は、幸い、社内に新しい風として受け入れてもらえました。

企業広報は、そのH君が先鞭をつけました。
問題の本質をとらえて打つべき手を考えるといった先見性にすぐれた仲間でした。

広報となると、外部との窓口が必要です。
組織上、窓口となるうちに、私のほうが仕掛けるようになっていったのです。

広報では、広告代理店とのつきあい、メディアとのつきあいなど、それまで知らなかった世界が広がりました。
広告代理店とのつきあいなど、それまでほとんどなかったのですが、ある時、顧客である日経新聞からの依頼で大型広告を出さなければいけなくなり、H君の人脈で、中央宣広とつきあいが始まりました。

彼らが、無から有を生み出す力、煩雑なことをまとめていく力は、私にとって刺激的でした。
また、こちらが思いをしっかり伝えるほど、よい仕事になることも知りました。

広報マンは、どこまで自分で、責任というリスクを背負えるかの仕事です。
記者の質問にどこまで答えてよいか、どこまでとんがった広告を通せるか、局面ごとに決断を迫られました。

そうしたことは、それまで会社の「あるべき姿」を考えながらやってきたことが、役にたったと思います。
また総務で幅広く経験したことで、問題意識も養われたように思います。


同業他社が、背面ヌードを使った、地道な業界にしては大胆な広告を打ちました。
やられたと思いました。

しかし、大手のひとつである自社が、それを冷ややかに見ているのではつまらない、何かできないかと思いました。
優秀な新人を採るには、こんな元気な業界があると知ってもらう必要がありますが、こちらも何かすることで、業界の認知向上に相乗効果が生まれるかもしれません。

年間計画に沿った戦略的な広告の必要を感じて、当時あった広報委員会の長である常務に相談しました。
少しふっかけた予算案はさすがに削られましたが、2億円の予算をとってくれました。

もともとお金を使わないことでは天下一品の会社でしたから、目を疑いました。
20年以上前の2億です。

それが、前に述べた毎日事件につながるのです。
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by 50tempest | 2014-08-25 07:59 | 自己紹介