ゆめ芝居 それがしの申しますことひと通り・・・

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人生を考えるフレーム

心理学を生きる上でのフレームに活用するのはいいことだと書きました。
自分もそうしているし、交流分析がその役割を果たしていると思うからです。

つまり、人は何かの枠組みなしには生きにくいのです。
交流分析では、「構造化欲求」と言っています。
それぞれ、何かをモノサシとして世の中を見ているのだと思います。

多いのは、宗教を生きる指標や糧にしている人でしょう。
私は宗教を否定はしませんが、信じきれもしません。
宗教を必要と思う人は宗教を求めればよいと思います。

また、それが何かの思想(かつての共産主義といったように)であってもよい。
私は、どれもピンとこないので、その代わりに心理学をおいているのかもしれません。

そんな考え方は、学生時代、ドイツ語の教材でかじったフォイエルバッハ『キリスト教の本質』の影響のようです。
神は思弁の産物であり、神という概念は、その人が世界観を作り上げる上で必要だから、それを信じるのだ、というようなことを言っていたと思います。

そのような心の営みは、無意識かもしれません。
フォイエルバッハに従えば、ものを見、考えるうえでの枠組の、ヘソの位置に何を置くか、そこに神を置くと枠組を構築しやすい人が神様を信じることになります。
とすれば、当然、仏様を置く人、宇宙の真理を置く人、それぞれであっていいのです。

あの本を読んだ頃は、自分は神に頼らなくても、思想に頼らなくても、生きていけるはずだといきがっていました。
その姿勢は、今でも大きくは変わりません。

しかし、人生のあるとき交流分析に出会って、それが人間と社会の現象をまことによく説明できることがわかり、考えの、ある部分にかなり取り込みました。
交流分析は理論ですから、ヘソに置くというより、枠組そのものの一部ということになるでしょう。

このように、自分にとっての交流分析と、誰かにとっての宗教とは、考え方の枠組を構成するものという意味で、おなじ延長線にあるのだろう、と近頃思っています。


氷山思考31 ・・・どんな言葉をあてるか
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by 50TEMPEST | 2007-12-28 19:30 | 見て聞いて考えた