交流分析理論の中で、年齢を追うごとに、私の中で興味の比重が大きくなっているのが「時間の構造化」というテーマです。
それは、要するにこういう内容です…。
人は構造化の欲求を持っていて、カオスの状態を耐えられず、何でも構造化したがる。
特に、他人との交流においては、ストロークの質・量に応じて、時間を以下の区分に構造化する。
・ひきこもり
・儀式
・暇つぶし
・仕事(活動)
・ゲーム
・親密
その人なりに、上の6つの区分に、それぞれ時間の配分バランスを作るということです。
確かに、日常を考えてみると、普通の人は似たような1日、1週、1月をすごしています。
それはつまり、安定した形を作っていくということですね。
言葉を変えれば、コンフォートゾーンを作るとも言えます。
さて、時間を構造化するということは、行動を構造化することでもあります。
時間をすごすのは、その時々に何かをしているわけですから。
時間の使い方が安定的な形になっているなら、行動もおきまりのパターンになっていると考えられる。
つまり、時間の使い方の安定は、行動内容の固定化だと言えます。
なぜそうなるかと言えば、生存を確保するために身の安全をはかるからでしょう。
そこで問題は、時間(=行動)の構造化(=安定化、固定化)は、生きる実感として充実感につながるか、ということです。
充実して生きるということは、かなりの部分、変化に挑戦して何かを新たに創造することから生まれるように思います。
もちろん、ある時期からは、しっとりゆっくり安定した日常のくらしに充実感を得られる時も来るのですが。
一方で生物としての人間は、その生存を確保するためにコンフォートゾーンを作るわけですが、他方で、選択して生きる存在としての人間は、コンフォートゾーンを変えることで充実感を得ることができるのではないか。
そしてまた新たな構造を作りだしていく…。
構造を作っては変える、その永遠の繰り返しにこそ、充実の人生があるのではないか、と思います。
そこで、私は時々ゾーンをちょっとずらしましょうと言いたいのです。
コンフォートゾーンを丸っきり変えなければならない事態は、そうはありません。
また、そんなことばかりあったのでは、たまりません。
少しずつずらしていくのは、比較的容易にできます。
そのずらすときに、時間の構造化の6つの区分というフレームは役立ちます。
後のほうの区分に属する時間をふやすこと、つまり、そんな行動を選べばよいのです。