ゆめ芝居 それがしの申しますことひと通り・・・

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カテゴリ:自己紹介( 25 )

私のキャリア18 マイ記念碑を作れ

総務時代に思いついたキャリアの伸ばし方、ひとつはソリティア・モデルです。


もうひとつは、「記念碑」という発想です。
これば技術の会社にいたから生まれた発想かもしれません。

工事技術者がした仕事は、その人の記念碑になりますね。
それは世にたくさんあるうちのひとつでしかないし、一般に知られているものでもありません。

しかし、「これはお父さんが作った建物だ」と子供に言えたら、それは誇らしいものです。
皆、そんな誇りを抱いて仕事をしていると思います。

であれば、自分も「マイ記念碑」を作ればいいのだ、と思いつきました。
あれは俺が残した記念碑だと自分に誇れば、それでいい。


そんな目で、それまでしたことを思い出してみると、けっこうたくさんありました。
では、これからもどんどんマイ記念碑を作ってやろうと決心しました。

形に残る私の最大の記念碑は、つくばの研究所です。
そこに付属する社員寮もそうです。

私らしさという点では、本社ビルの掲示コーナーもそうです。
社内通達などが貼り出されていただけのうす暗い一角を、親しい広告代理店に相談して、イベント会場のような明るいポスターコーナーに一変させました。


人事時代は、海外勤務規程をはじめとして、新しい規定を作り、またそれまでの規程を改定しました。
関連して、社員が書く書式類も、体裁をそろえて、書きやすいものにしました。


そんなことを続けているうちに、記念碑は増えてきます。
それに比例して、自信もついてきます。

要は、自分の記念碑と思うと、めんどうな仕事もやる気になるということなのです。
自分事に引き寄せることの大事さをあらためて感じます。


誰が認めるものでなくてもよい。
自分の生み出したものが、会社のある時期を彩ってくれたとしたら、それは納得の仕事と言えるのではありませんか。
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by 50tempest | 2014-09-08 07:01 | 自己紹介

私のキャリア17 ソリティアモデルで専門性をつけろ

いろいろチャンスをもらえた総務時代でしたが、しかしその一方では、つまらないと思う気持ちも生まれていました。
スタッフ系は何をやっても、社内的に評価されるわけではありませんから。

結局便利屋で終わるのか、などと思いました。
便利屋が悪いというのではありませんが、当時は何か胸を張れない感じがありました。

では、自分の専門性をどうつけていけばよいのか。
そんなことを考えている時、ひらめいたことがふたつありました。


まず、専門性は周辺に広げればいいのだ、ということです。
これは、後に「ソリティア・モデル」と名付けました。

当時自分の専門といえるものを、思い浮かべていくと、領域の関連しないものがありました。
事務用品の調達、印刷の手配、株式、不動産…、総務は幅広く担当していますから、与えられる仕事の経験だけでは、互いに関連の薄いものもあり、それが「便利屋」感になっていると感じられました。

その間が埋められればおもしろいな、と思いました。
当時流行っていたソリティアというゲームで、降ってくるマスを、凹んだところに落とせば、グリッと地平線が下がる、あの感覚で何かが生まれるのではないかと思えました。

たとえば、オフィス家具ならオフィス家具に詳しくなります。
それはそれで必要です。

そして、それを深めるだけでなく、隣接領域にも関心を持って勉強していくのです。
家具のあり方と人間の疲れ方との関係はどのようなものか、家具を調達するために使えるリース契約とはどのようなものか、といった具合です。

たとえば前に担当した不動産の知識などがあるとしたら、それとつながって、ファシリティマネジメントといった専門領域が生まれたりします。
関連づける意識がポイントです。


単にあれとこれができるにとどまっていれば、たくさんあったとしても便利屋ですが、ひとつ上の次元の専門性を生むという意識で取り組めば、相乗効果を持つ、おもしろい仕事が作り出せるのです。
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by 50tempest | 2014-09-01 07:00 | 自己紹介

私のキャリア16 若者が風を変える

私が、どうやって広報という仕事に行きついたのかです。
時代の流れ、人のつながりが大きいです。

私は、もともと総務畑でスタートしました。
前にも書いたように、新しい会社で自分らしい仕事をしようと決めていましたから、担当する仕事ごとに、あれこれ変化をしかけました。

時代は大きく変わってゆきましたし、会社も伸びていた時期で、新しいチャンスがまわってきました。
思い返しても、いろいろできたものだと思います。

例を挙げると、
デスク、チェアをグレーから今風のものに入替
会議室の家具を、折り畳みテーブルとスタッキングチェアに入替
ワードプロセッサ(まだパソコンではなく専用機)の普及
本社ビルの増築、などなど。

総務だからやれたことばかりです。
もちろん上司が認めてくれたおかけでもあります。

担当した仕事の中で、何かを変えようと思えば、それなりに勉強は必要です。
それは本で学ぶだけでなく、外の世界を見て歩くことも含めての「仕込み」と言えるでしょう。


さて、30代半ばのある時、同年代のH君が、休眠中の社内報をリニューアルして出すことを手伝ってくれないか、と言ってきました。
当時、創業者のジュニアが次の経営者として入ってきて、彼はその秘書のような立場でした。

ジュニアも同年代。
会社に停滞感の漂っている時でしたので、彼としても、何か空気を変えようとしていたのかもしれません。

ジュニアが発行責任者で、私とH君が自由に企画し、かつ書きました。
新しい感覚の社内報は、幸い、社内に新しい風として受け入れてもらえました。

企業広報は、そのH君が先鞭をつけました。
問題の本質をとらえて打つべき手を考えるといった先見性にすぐれた仲間でした。

広報となると、外部との窓口が必要です。
組織上、窓口となるうちに、私のほうが仕掛けるようになっていったのです。

広報では、広告代理店とのつきあい、メディアとのつきあいなど、それまで知らなかった世界が広がりました。
広告代理店とのつきあいなど、それまでほとんどなかったのですが、ある時、顧客である日経新聞からの依頼で大型広告を出さなければいけなくなり、H君の人脈で、中央宣広とつきあいが始まりました。

彼らが、無から有を生み出す力、煩雑なことをまとめていく力は、私にとって刺激的でした。
また、こちらが思いをしっかり伝えるほど、よい仕事になることも知りました。

広報マンは、どこまで自分で、責任というリスクを背負えるかの仕事です。
記者の質問にどこまで答えてよいか、どこまでとんがった広告を通せるか、局面ごとに決断を迫られました。

そうしたことは、それまで会社の「あるべき姿」を考えながらやってきたことが、役にたったと思います。
また総務で幅広く経験したことで、問題意識も養われたように思います。


同業他社が、背面ヌードを使った、地道な業界にしては大胆な広告を打ちました。
やられたと思いました。

しかし、大手のひとつである自社が、それを冷ややかに見ているのではつまらない、何かできないかと思いました。
優秀な新人を採るには、こんな元気な業界があると知ってもらう必要がありますが、こちらも何かすることで、業界の認知向上に相乗効果が生まれるかもしれません。

年間計画に沿った戦略的な広告の必要を感じて、当時あった広報委員会の長である常務に相談しました。
少しふっかけた予算案はさすがに削られましたが、2億円の予算をとってくれました。

もともとお金を使わないことでは天下一品の会社でしたから、目を疑いました。
20年以上前の2億です。

それが、前に述べた毎日事件につながるのです。
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by 50tempest | 2014-08-25 07:59 | 自己紹介

私のキャリア15 企業広報として

大阪で人事部長とケンカをし、それがキッカケで人事課長になってしまったのですが、その大阪に行く前には、大阪支社長にたいへんな迷惑をかけたのです。

当時、私は総務課で広報を担当していました。
新規採用で苦戦している中、会社の存在や実績を世の中に知っていただく必要があると考え、主要紙連動で、創立記念の広告を企画しました。

主要紙に一斉に1ページ大のカラー広告が、しかも創立記念日の前日に乗れば、社内に向けても、会社が変わりつつあるとアピールできます。
ところが、予算が少し足りませんでした。

日経、朝日は動かせません。
読売をとるか、毎日をとるかで迷いました。

実は、毎日新聞は大阪支社のお客様でした。
それは知っていたのですが、エイッと部数の多い読売を選びました。

何か言われるかなと思いながら稟議を書くと、社長まであっさり通ってしまいました。
一応OKをもらったわけです、「どこに出さない」とは書いてありませんが。

掲載当日、バッチリ出た広告を見て、やったぞと思っていると、大阪支社長から電話が来ました。
「あれは何だ」というわけです。

朝、毎日新聞から呼ばれて、答えられなかったそうです。
それはそうでしょう。

どんな場面が繰り広げられたか、今なら想像がつきます。
お客さんにしてみれば、腹の立つことでしょうし、会社としてそんな大がかりなことをしておいて、幹部が知らないわけですから。

冷や汗をかきながら、電話で事情を話しました。
リクルート目的であること、少しでも広く知らしめるために部数の多い新聞を選んだこと…。

電話の向こうの支社長が言いました。
「よし、わかった。大阪で持つから、直近で同じように出せ」

怒鳴りもせず、ポンと予算を出してくれました。
私にとっては、時間がずれたとはいえ、主要紙全部に出せたことになりました。

今思えば、ひどいことをしたものです。
スタッフの横暴と言おうか、営業の大変さを知りませんでした。

ちゃんと根回しして、少し予算をもらえないか、と事前にかけあうこともできたのです。
しかし、新聞にとりあげてもらったり、ちょっと気の利いたCMを出してみたり、それまでとは違うことを始めていたので、仕掛け人として、少しは私の名前を知っていてくれたのかもしれません。


もともと広報という仕事はありませんでした。
もちろん予算もありませんでした。

「うちは広告はしない」とトップが公言していたのを、少しずつ風を変えて、一時は億という単位の予算をもらえたのです。
一番最初に、大番頭である副社長の部屋のドアをたたく時は、腹をくくったものでしたが。

リスクを背負っても、一歩踏み出す仕事をしていれば、その周期はどんどん大きくなるのだと思います。
後に私が管理職候補になった時、この副社長が、「あいつはいい。あいつは自分の考えを持っている」と、真っ先に認めてくれたと聞いています。

では、どうやって広報という仕事に行きついたのか。
それは次に。
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by 50tempest | 2014-08-18 07:58 | 自己紹介

私のキャリア14 本社の回し者

人事に回されたのは、大阪時代、人事部長に反旗をひるがえしたせいです。
入社当時は、何となく人事志望ではありましたが、こんな形で実現するなどとは思っていませんでした。


大阪には2年いました。
1年半は営業部、後の半年は総務課でした。

行った当初、「支社長のお目付けに送られてきた、回し者だろう」などと、冗談半分に言われたものでした。
定期異動というものが始まって、第一号だったからです。

しかし、皆、温かく接してくれました。
それまでの本社総務部時代とは違う、たくさんのことを学びました。


その1 自分で稼ぐという、ある意味シンプルな理屈を知ったこと。

ある地方の営業所長が、営業会議で言いました。
「あの物件とこの物件のめどがたちました。うちの店も、今年も飯が食えますわ」。

地方の工事物件は限られています。
これとこれが取れれば、店の経費と、自分の給料と、上部組織の経費が出るというわけです。

ああ、仕事とはこういうものなのだ。
地方では、こうやって稼いでいるのだと、腑に落ちました。


その2 大阪の独立の気概を知ったこと。

当時、関西国際空港を作ろうという機運が盛り上がっていました。
名だたる関西系大企業のトップたちが、その実現に向けて、連絡会を作り、人を出して活動していました。

かなりお膳立てを作ってから、建設省OBを社長につれてくるといった進め方に見えました。
東京だったら、すぐ国からの金を引き出す算段とか、政治家を抱き込む工作とか、いろいろ聞こえてきそうです。

そうでないのは、ここが関西なのかなあと思いました。


その3 本社からの文書のわかりにくさを感じ、反省できたこと。
地方で受け取る文書は、まことに舌足らずで、わかりにくいものでした。

自分自身が書く身の時は、できるだけ簡潔に書こうなどとしていたものでした。
それ自体は間違いではありませんが、本社にいると、東京という地理的なバイアスや、上層部のあれこれが何となく聞こえているという立場的なバイアスがかかっていたのです。

そんなものがない立ち位置から、送られてくる文書だけを読んだ時、「どうせいちゅうねん」と突っ込みを入れたくなるのでした。
まことに冷や汗ものでした。


その4 歴史を体で学べたこと。

営業部では、ある時期、各地方自治体に書類を提出するという仕事がありました。
また、手形などを集金してくるのも、営業の仕事でした。

営業部とはいえ、私は管理業務の課長なので、支社の事務所にいると、毎日退屈でした。
思いついて、これらの外出を引き受けました。

本来の営業マンは、本来の前向きの営業活動をしてください。
支援的な仕事は私がやります、というわけです。

おかげで大阪市内や、近郊の街々を見て回ることができました。
たたなづく大和の山々を電車の窓から眺めたり、古墳の現物を見たりすると、古代の歴史の感覚が体でわかる気がしました。


さて、支社内の人事の都合で総務課長になり、しばらくすると、本社から人事部長が来ました。
転勤旅費の規程を改定することの説明でした。

要するに、会社負担の上限を作るので、今より少し自己負担が出るとの説明がありました。
それはおかしいでしょうと、人事部長と言い合いになりました。

経費を抑えたいという考えはわかるが、これから大いに人を動かして、社内に刺激を与えようとする時、動いた者が大きな経済的負担を強いられるのでは、はずみがつきません
ある方向に水を引こうとするなら、そこに障害物を置いてはいけないはずです。

翌日、実際にあった家族帯同のケースで試算すると、少しどころか大幅に自己負担が出ることがわかりました。
これは大変と、他の支社の総務課長に連絡をとって試算してもらうと、どこも自己負担が出て、驚いていました。

改定の説明は受けながら、たいしたことはないだろうと、誰も試算していなかったのです。
私自身は単身赴任で、初期経費はあまりかかりませんでしたが、自分の経験をフィードバックすることで、転勤制度を整える情報にしてもらおう、それが第一号の責任だとと思っていたので、試算する気になったのです。

早速、この実情を支社長に報告しました。
支社長も驚き、預からせてくれということになり、この案は結局、経営会議を通っていたにもかかわらず、発表されないまま、実質廃案になりました。

当時の支社長には、感謝しています。
それまでも色々やらせてくれたばかりでなく、あろうことか、決まった案にたてつくのを聞いてくれ、したくもない社内工作もしてくれたのでしょう。


ホッとしていると、間もなくまた次の異動シーズンがやってきました。
また異動になるから、本社に行って内示を聞いてこいというので、首を洗って、人事部長のところに行きました。

何と、今度は人事部人事課長だとのこと。
けんかした人事部長の元で働くことになってしまったのです、やれやれ。

ちなみに、転勤旅費の規程は、私が着任後に作り直しました。
今思えば、私は、扉は押せば動くものと信じ、また押すのが自分の役目と考えていたようです。

実は、大阪支社長にも、大阪転勤の半年前に、たいへんな迷惑をかけたのです。
それなのに、定期異動の制度ができ、まず動かしやすいスタッフ系からはずみをつけていこうという時、稼げもしない私を引き受けてくれたのです。

キャリア形成に大きな力を果たすのは、不思議な人間のご縁です。
そのあたりのいきさつは、次に。
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by 50tempest | 2014-08-11 07:56 | 自己紹介

私のキャリア13 革新系?人事として

私のサラリーマン生活をふりかえると、ほぼ二分されます。
前半は総務時代、後半は人事時代、その間に2年間の大阪支社生活がはさまります。

人事時代は、給与体系、時間管理体制など、いろいろな改革に取り組みました。
思えば、会社も経営基盤が固まり、当時の人事部長が組織を整えていく時だったと思います。

前にも書いたように、会社を変えることに喜びを感じていましたので、充実して仕事ができていたと思います。
自分のやりたいことが、会社という舞台でできたのは、幸せなことです。


マネージャーとしては、部下たちに、改善を求めました。
わかりにくい規定や申請書類を、社員にフレンドリーなものにするといったことです。

新しいことに取り組んだ人には、年末に、「やったね賞」なるプライベート表彰を行いました。
この時もらった表彰状を「10枚ためると、座布団がもらえる」というルールでした。

人事は「ひとごと」などと言われるように、社員側からは、あまり温かい部署ではないものです。
相談しても、「それはできない」といったお役所のような答えが返ってきて、親身に相談に乗ってくれない、そんなイメージはありませんか。

会社全体を見ることが求められる部署なのですが、その目線から「N分の1」の事象であっても、その当事者にしてみると「1分の1」なのです。
その感覚を忘れてほしくないと思いました。


自分としては、それなりに勉強した時代です。
着任当初は、労働法を勉強しなおしました。

大学では法学科でしたが、労働法はほとんど勉強しなかったためです。
しかし、大学で得た法律感覚は、規定作りなどで役立ちました。

その後は、社会保険労務士の勉強をしました。
年金支給の繰り下げが始まり、定年退職していく社員に、そのあたりのことをうまく説明できなくて申し訳ないと思ったのがきっかけです。

若い部下が資格の学校に通っていると聞き、自分でコツコツよりも、今はそういう手があるんだと教えられ、自分も通いました。
いろいろあって、社会保険労務士の資格はあきらめましたが、年金に詳しくなったことは、自分のことでも本当に役に立ちました。


実は総務時代に、人のいない関係会社に手伝いに行かされたことがありました。
そこでは半年弱、給与計算、年末調整など、総務も人事も何でもやりました。
経験がまったくなかったので、明日の手続きに、前日にマニュアル本を見ながら書類を書くという始末でした。

しかし、その経験が、後の人事時代にどれほど役立ったことか。
あの経験はつらいものでしたが、人生に何事も無駄はないと、しみじみ思いました。


さて、人事に回されたのは、大阪時代、人事部長に反旗をひるがえしたせいです。
そのあたりは、次のお楽しみ。
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by 50tempest | 2014-08-07 07:32 | 自己紹介

私のキャリア12 稼ぐ感覚を知る その2

管理部門が子会社化され、稼ぐことを求められることになりました。
勝手のわからないことばかりでしたが、ここから何を学ぶかが勝負だと思っていました。


アウトソーシング会社として管理部門(人事、総務、経理、後にシステム部門も合流)を別会社化し、子会社側は専門能力を活かして、本体だけでなく他の会社にもサービスを提供することで稼ぐというビジネスモデルでした。
同時に、本体にとっては人件費を変動費化し、その他の経費も経済論理にさらすことで圧縮しようというねらいもありました。

会社の立ち上げから担当しました。
会社とはいっても、管理部門の人間たちですから、どうすれば「稼げる」のか、はじめは本当にわかりませんでした。

その後、他部門や、外部から「稼ぐ」感覚を持った人が加わりました。
私の目には、彼らの発想はとても新鮮に映りました。


その会社には、本体の「一般職」という補助的業務を担当していた社員(現実的にほぼすべて女性)も転籍し、本体は「一般職」を廃止するという改革も行われ、これも、人事として私が担当しました。
人を切らずにできるリストラとして、苦心の施策だったと思います。

しかしながら、リストラであることには違いないわけです。
それまで会社は、「経営は盤石」、会社に身をゆだねて、日々まじめにやってさえいればよいのだと言っていただけに、「こういうことは起こるのだな」という感慨がありました。

やはり、自分の仕事人生は自分で築き、自分で守っていかなければいけないのです。
交流分析を学んだり、セミナー通いでたくさんの外部の人と付き合い始めたのは、その頃からです。


私は、上司に冗談で「過激派」と言われたほど、変革をしかけてきた人間です。
制度改定や問題解決に喜びを感じてやってきました。

とはいえ、管理部門、特に人事は、立場が上がるほど、調整的な仕事が増えます。
本体から離れた視点からふりかえると、何と遅い仕事ぶりだったか、と思えました。

そんな考えが高じてきて、自分の新しい立ち位置を開拓すべきタイミングになったとき、新しい事業の柱を作ることにチャレンジしようと思ったわけです。

自分のやりたいことと、会社が求めることとは、必ずしも一致しません。
しかしそんなとき、双方の方向性のベクトルが、裏表なら論外ですが、そこそこ似たものならば、そのベクトルの和(平行四辺形の対角線です)の形で、ウィンウィンの方向が見いだせると考えました。


新事業に挑戦する気になった背景や動機をふりかえってきました。
それができたのは、恵まれた立場だったと思います。

部門が子会社化されることで、それまで普通のまじめな人事屋だった自分の意識が変わったのです。
しかし、それまでに積み上げてきていたものが無駄になったわけではありません。

人事屋として、また管理職として、スキルなりマインドなり、それまでのものがあったから、自己肯定感を持って臨めたと思います。
では、そのあたりを、さらにふりかえってみましょう。
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by 50tempest | 2014-02-28 09:42 | 自己紹介

私のキャリア11 稼ぐ感覚を知る その1

管理部門育ちの自分が、研修事業を社内ベンチャーとして立ち上げようと、なぜ考えるに至ったのか。

たどると、その数年前に、管理部門が子会社化されたことがきっかけです。
おかげで、考え方がだいぶ変わったように思います。

まず、自分の給料を自分で稼ぐという、当然のことに目覚めたこと。
ずっと管理部門育ちでしたから、頭ではわかっていても、事業会社になることではじめて、その大変さ、またそのためにはどうすることが必要なのかがわかりました。

次に、武器としてスキル、経験を積む必要を再認識したこと。
財務は万全だから安心して身を任せていなさいと、会社側は言い続けてきていましたが、首を切られたわけではないとはいえ、どんなことも起こりうるのだ、自分の身は自分で守る必要があるのだと、あらためて思いました。

もうひとつ、チャレンジすることの面白さを感じたこと。
会社を回すために、経営的な視点からあれこれと試みることが増え、何かやって結果を生むという刺激的な感覚に慣れていきました。


苦闘しながらも、ふと気づくと、子会社側は少しずつでも意識が変わり、変化を求められなかった本体側の意識は昔のままでした。
まして、外部の人たちの感覚を知ると、育った世界の時計の回り方が少し遅いように感じました。

多くのサラリーマンは、ある年齢になると、自分のサラリーマンとしてのゴールのイメージを持つと思います。
私もひとりの人事屋として、多少へそ曲がりで改革派とはいえ、大枠ではまじめなサラリーマンでしたから、最後は人事部長ぐらいにはなれるかな、などと思っていました。

それが、子会社化によって大きく変わりました。
思い浮かべた形にはなりませんでしたが、逆に世の中を知ることができたし、たくさん学ぶことができました。

むしろ、幸せだったと思っています。
何を学んだのか、次で、少しくわしくみていきます。
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by 50tempest | 2014-02-24 09:40 | 自己紹介

私のキャリア10 新事業に挑戦

講師としての独立について、書いてきました。
では、その前はどうだったのか。

その前の2年間は、レモン・ビジネス・アカデミーという事業の責任者をしていました。
これは、企業研修・セミナーをビジネスマンに提供する事業です。

会社自体はアウトソーシング、人材派遣という事業をしていました。
その中で、社内ベンチャーとして新事業を提案したのです。

それまで自分が担当していた親会社の人事業務については、ある程度人も育ち、人件費の高い自分が担当し続けるのは適当でないという流れにありました。
自分の組織への貢献として何をするかを考えなければいけませんでした。

そこで、研修の事業を立ち上げられないかと考えました。
それまでもグループ会社の研修などをしていましたし、自分自身セミナーに出るのも好き、また、あちこちの研修会社の体験セミナーなどものぞいていたので、これなら大きな投資もいらないし、うまくいけば、何人かは食べていけると思いました。

こんな発想は、藤原和博さんに刺激されたものです。
彼が、会社の資源を自分のために活用する生き方として、会社の方向性と自分の方向性のベクトルの和という考えを書かれていて、なるほどと思ったのです。

ビジネスモデルとしては、研修講師くさい既存の方よりは、個人向けにセミナーをやっている講師さんで、よいコンテンツをお持ちの方がたくさんいらっしゃるので、そういう方を企業につなごうと考えました。

また、会社に広い会議室スペースがあったので、ここで夜のセミナーと研修の体験セミナーを開きました。
存在を認知してもらいつつ、講師さんとのご縁を作りました。

この時期にお知り合いになった方たちには、今人気の方たちがたくさんおられます。
水野浩史、渡瀬 謙、心屋仁之助、倉島麻帆、福島 章、木戸一敏、矢矧晴一郎、開米瑞裕、今井 孝、三宅潤一、長尾 彰、下田令雄成、朝倉千恵子などなどの各氏(書き切れません)。
感謝の一言です。

ビジネス自体は、イメージ通りには進みませんでした。
素人同然で、手さぐりしつつですから、当然といえば当然かもしれません。

しかし、何事もやってみなければわからないもの。
やってみたことで、得るものはたくさんありました。

こうした経験が、後にどれだけ役にたったかしれません。
また、私自身も経営ばかりでなく、講師として登壇したり、商談を進めたり、夜はネットに告知を書き込んだりと、1人4役ぐらいの仕事をしましたので、濃密な2年間でした。

また、榊原重朗先生は、彼が体験セミナーの参加者として来られたときからのご縁です。
この後、ご縁がどんどん深まり、今も「師」の1人であります。

ビジネスとしては2年やって、多少の感触が得られたように思えましたが、社内事情もあり、一応ケリをつけることになったわけです。
では、私がどうしてこんな「無謀」なことをやりたいと思うようになったか、さらにさかのぼりましょう。
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by 50tempest | 2014-02-17 09:37 | 自己紹介

私のキャリア9 適職選びのフレーム

キャリアカウンセリングでは、仕事選びのフレームとして、興味、能力、関心の3つで考えることをします。

私自身も、その面から考えました。


◆興味…仕事にどの程度興味を感じるか、どんな興味を感じるか

会社勤めを続けて、起きてくるだろうことに、興味を感じることがあまりできませんでした。
ひととおりのことは経験した感がありました。

立場が上になるほど、調整的な仕事が多くなりますし、当時の雰囲気では、消極的な方向での調整が中心とも見込まれました。
組織やヒト・モノ・カネを動かすこと自体が好きという人もありますが、私はそうではありませんでした。

独立については、講師になる上で、教えること、育てること、話すこと、演じること、そしてそのことに自分の体を使うことは、とても楽しく感じられました。
そのために自分自身が学ぶことも楽しいことでした。


◆能力…必要となる力を持っているか、それは競争力があるか

勤めを続けるなら、ある意味慣れた仕事です。

独立ついては、それまで見てきた多くの講師さんを思い起こすと、自分自身がそれまで色々と身につけてきたもので何とかなると思われました。
特に、自分がやってきたワークショップ形式で受講者から引き出しながら進めるスタイルは、一応のレベルだろうと思いました。

もちろん、このあたりは、独立後に未熟さを思い知らされるのですが、多少根拠は薄くても楽観的に考えなければ始まりません。
講師になりたくて、あれもこれもと学び続けているものの、結局飛べていない方に出会ったことがあります。


◆関心…その仕事に意義を感じるか、自分がする上でどんな意義を見出せるか

会社に勤め続けるなら、リベラルな幹部として、会社をよりよくすることはできたでしょう。
ただ、当時の会社の状況を考えると、55歳の私があるポストを占めるより、もっと若い人に積極的に経験を積ませるほうが得策だと思えました。

独立については、自分が学び、経験したことをお伝えするのは、世の中にもお役に立つはずと思いました。
人の生き方としても、教えてもらう立場から、それをお返しする立場になるのは意味があると思えました。
私が会社に入った当時、定年が55歳でしたから、その意味でも、立場を変える節目としては適切だと考えたわけです。
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by 50tempest | 2014-02-10 06:41 | 自己紹介