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前立腺がん手術日記【退院後編】

前立腺がん 手術日記

前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。


【退院後編】

3月19日 火曜 術後12日

手術前にどうしても入れざるを得なかったアポイントに出かける。
薄型のパンツ型と三角型パッドを併用。出先でパッドを交換しながら対応。1時間半ぐらいは対応できた。
外からはわからない。こちらは、パッドがどれだけもってくれるか、頭の一部で不安が走る。もし、持ちきれなくなっても、パンツがあるので、漏れ出すことはないと確認できた。

夜は念のため、パンツ型と尿とりパッド(巻き型)を併用。
目覚めて自力排尿する形が、うまくなってきた。

風呂は、先に誰かにはいってもらい、浴室をあたためてから、シャワーを使う。


3月20日 水曜 術後13日

終日、退院お知らせメールなどを描いたりしてすごす。

パッド類をいろいろ試している。
夜使っているパンツ型には漏れ出していないようにみえる。
ブリーフと三角型パッドで後ろ漏れあり。

ここで三角型パッドといっているものは前あて式である。粘着式になっていて、ボクサー型のパンツなど、ぴったりした下着に貼りつつ、中で漏れてくる尿を吸収する。これを使えば、外から見てかさばらないし、足の動きにもじゃまにならない。尿もれパッドというような商品名で、何cc持てるのか、いろいろ種類がある。
病院の売店にあって、入院中から使ってきたものは筒を巻く型である。巻くと、その部分がふくらんでしまう。巻くだけでなく、いわゆる「おしめ」のように前にあてることもできるが、それだと足の付根がごわつくので、外歩きには適さない。尿とりという商品名になっている。呼称の違いが、スペックの違いであるのかもしれない。

どちらにしても、保水力だけでなく、匂いも出さないのはすばらしい。昔は布のおしめだったろうから、どれだけ楽かしれない。


3月21日 木曜 術後2週間

前夜に替えた紙オムツで、翌日1日過ごしてみる。何の問題もなし。

尿取りパッドの消費はばかにならない。64個パックが心強い。
また、ゴミ出しの際、水分を含んでずっしりと思いゴミ袋を出すことになる。

排尿コントロールに役立つ括約筋の体操を、ネットで見つけた。


3月22日 金曜 術後15日

アフラックの保険の請求書類を書く。
生検の時は入院給付だけだったが、今回手術給付をもらうには、病院に書いてもらう紙が必要とわかった。
病院の支払いは個室の差額ベッド代合わせて23万円弱。これは高額療養制度のおかげ。
アフラックからは、手術給付200000円と、入院給付が5000円/日で、13日分出るはずだから、保険金のほうが高いことになる。
妻に、アフラックの紙を病院に持っていってもらう。


3月24日 日曜 術後17日

排便の時、無理に力むな、口を開けて力めと言われている。
それは前立腺をはがして、後を直腸などに縫いつけてある、硬い便を出そうと力むと、そこがちぎれてしまう危険があるからだ。

ずっと大丈夫だったが、この日はなかなか出なかった。
便が大きいせいか、出そうになるが、ちょっと痛みを感じると引っ込んでしまう。
かなわないので、浣腸を買ってきてもらった。立派なバナナが出た。安心。


3月25日 月曜 術後18日

血尿がだいぶなくなった。

尿意を感じて排尿に行く、ちゃんと出るという形が増えた。

入院中、後半から普通に食べられていたが、動かないせいか、退院時の体重は61キロ台。その後次第に増えて、63キロ台になった。

今年は外の花粉がひどいので、ほとんど外にも出ていない。
少しずつ、散歩程度から体を動かし始めたい。


4月5日 金曜 術後4週間

夜はしっかり排尿できるようにはなった。ただしパッドにも出ている。
昼は、パッドの種類によって、尿意はあってトイレに行っても、そちらに出てしまっていることがある。


4月6日 土曜 術後30日

手術の前ギリギリに決まった仕事の本番で水戸に遠出。
薄型パンツと前あてタイプのパット250CC用とで乗り切る。外出の際は、前あてパッドは頻繁にチェックして取替えなければならない。おおむね2時間が目安。


4月7日 日曜 術後31日(1か月)

巻き型より、前あて型のほうが、尿意を感じやすいように思う。巻き肩は、高性能すぎるせいか、昼の尿意がわかりにくい。
あてるタイプに切り替えていこうと思う。漏れの危険はあるが、昼も、それなりにも自力排尿できるようになってきた。


4月8日 月曜 術後32日

最初の定期受診。採血と尿検査をする。
PSA値は4/1000。尿にうみなどはなく、大変順調とのこと。


4月15日 月曜 術後39日

別件で病院に定期受診。
ある程度、排尿コントロールできるようになってきていたので、普通のブリーフに前あてパットで出かけた。

そろそろ呼ばれるかなというタイミングと重なって、トイレに行くのが遅くなり、目立ちはしないが、パッドからズボンまで漏れ出した。まだやばい。


4月23日 火曜 術後47日

朝から終日の仕事。
パンツ型と前あてパッド250CCで乗り切る。
ずっと立って動いての中で、時々のどを潤すために水を飲む。休憩時間のたびパッドをチェックした。緊張のせいか、汗に回っいるせいか、シャーッという排尿はなかった。パッドは結局3回交換。


4月25日 木曜 術後49日

夜は1~2回排尿に起きるが、ほとんどバッドが濡れずにすごせるようになった。
昼もリラックスしていれば、サインに気づく。ただ、手術前にくらべて、周期が短いので注意が必要。

パッド類を試してみた結果、以下のとおり
◎サルバ 尿とりパッド スーパー 男性用(テープタイプ用 )
 入院中から使っているもので巻き型。 68枚入があってコスパがいい。

◎ライフリー さわやかパッド 男性用 250cc 一気に出る時も安心用 26cm 18枚 【ドッとモレも安心】
 使っているときは薄くて、使う前の持って歩く状態も小型でよい。 

◎ライフリー パンツタイプ すっきりスタイルパンツ 男性用 2回吸収 【超うす型】【前あき機能つき】【下着のようなはき心地】
 私の場合はパッドも使っているが、本来は単独の紙おむつなので、1日出歩くにも安心。

◎リリーフ まるで下着1回分 男性用 ブルーローライズ
 ビキニバンツみたいな浅い形の紙おむつ。これにパッドで、たいていの外出は可能。
 ライフリーのパンツほどの力はないが、おむつ感が少ない。

△ポイズ メンズパッド 薄型ワイド 安心の多量用300cc 15.5×25cm 12枚 【男性用 軽い尿モレ対策】
 300CCという性能に惹かれて試したが、その分厚い。
 水を吸うとさらに膨れて重くなるのとで、最善とはいかなかった。

△ライフリー テープ用尿とりパッド あんしん尿とりパッドスーパー 男性用 3回吸収 39枚
 サルバよりも吸収量が多いので買ってみた。
 持ち歩きにかさばるので、サルバのコンパクトさとコスパのほうに軍配。



# by 50TEMPEST | 2019-04-26 15:56 | 見て聞いて考えた

前立腺がん手術日記【手術編 その2】

前立腺がん 手術日記

前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。

【手術編 その2】

3月14日 木曜 術後7日

朝、先生が来て抜糸。腹の傷のホチキス針を半分(ひとつ飛ばし)抜き、カテーテルも抜いてくれる。
しばらくの間、出た尿の量を計り、記録するよう看護師から説明を受ける。

気づかず失禁が始まる。最初は、盛大に。
子どもに戻ったと思って、時間を決めて、シーという感じでやってもみた。
タラタラぐらいは出ないこともないが、コントロール部分は今ダメになっているらしい。
しばらくは、こんなものらしい。
残尿なく、出ることが今は大事、とのこと。

尿取りパッドを大きいロットで買ってもらった。これで安心、
白十字の尿取りパッドはかなりの保水力を持っているが、こっちは出ていることがわからない。
だから、いっぱいになっている時、気をつけないと、ちょっとしたはずみで下着のほうにこぼしてしまう。
普通のブリーフで、尿取りパッドを使っていたが、この日は夜中を含め、2回汚す。何をか言わん。
少し血尿なので、放っておくわけにもいかない。その場で洗って、干しておく。個室なので、そのあたりは何とでもなる。


3月15日 金曜 術後8日

夜は、おおむね2時間おきでパッドを交換した。
膀胱が引っ張られた状態にあり、受け止めてかかえる力がないのだろうか。
また、膀胱の状態を感知してがまんしたりする神経も、働いていないのだろう。
かかえた水をコントロールして放していくという、なくなった機能を、あらためて体が作っていくとしたら、すいすいとはいかないだろう。

焦っても仕方ないので、今はできることをするしかない。
看護師さんの話では、時間でトイレに行くというよりは、尿意を感じるようにしていくのがいいとのこと。

早ければ、明日、土曜日午後には退院できそうな気配。
早く退院しなければならないという事情もないので、当初予定のとおり月曜でよいと看護師さんに伝えた。


3月16日 土曜 術後9日

前夜は試しにトレーニングパンツ(つまりは、紙おむつ)を使ってみた。
看護師さんに、熟睡のためにはその手があると教えてもらった。
性能がわからなかったせいか、もうひとつ長い熟睡はできなかったが、結果としては優れものだった。

早朝、尿意に耳を澄ますようにして、トイレに行くと、けっこうまとまった量が尿瓶に取れた。回復への感触めいたものだった。
パッドなどをうまく使って仕事をしていくイメージが少しずつできてきた。

回診時の先生の話
今、新しい膀胱の形に慣れてきているところ。
胃を切除して少ししか食べられない人が、だんだん普通に食べられるようになるのと同じ。
2週間ぐらいで、漏れるのと、自分の意志でするのが、トントンぐらいになるのが平均なので、焦らないこと。
ピンの残りは明日抜く予定。残したまま退院して、後日外来で抜くケースもよくある。アメリカでは退院後に外来で抜くのが普通。
ピンを抜いてから縫ったところがはじけてしまうと大ごとになる。


3月17日 日曜 術後10日

夜中、血尿が少し多めで気になった。
朝、看護師に見てもらうと、このぐらいは問題なしとのこと。

先生が残りのピンを抜いてくれる。
血尿が続いているのは問題ないかと聞いてみた。

先生の話
問題なし。血尿はこれからも、時に何ヵ月も続くでしょう。
尿にはかさぶたを溶かす成分があり、ブラジルなどでは、飲尿で、その働きを利用しようという療法もある。
空気中では簡単にかさぶたができて治るものが、常に尿が通る部分では、キズが簡単には治らない。泌尿器科の宿命です。

明日月曜の3時すぎ退院と決定。
アマゾンで、尿取りパッドやパンツ、あれこれ見比べていくつか試しに手配する。


3月18日 月曜 術後11日

娘も来てくれて、退院。
忘れ物のないようにとか言いながら、しっかりタオルを忘れてくる。

これまで、筒先をくるむ形のパッドを使っていたが、試しに三角型の前あて式のパッドを普通のブリーフと合わせて使ってみたが、少し後ろ漏れしてしまった。

パンツ型と尿取りパッドを併用して就寝。
安心して、熟睡でき、かつ尿意で目覚めることもできた。
このパンツはたまたまあったもので、義母か義父が使っていた残りだが、さすがに高性能。

退院時に先生からもらった指導書によると、しばらくは運動厳禁とのこと。
文面から察するに、ゴルフなどやりたがる人がいるらしい感じの文面。
アルコールは、尿漏れコントロールが完全にできるようになるまで禁酒。
ホルモン剤治療の時からやめているので、別に欲しいとは思わない。
再来月まで、ということは5月まで入浴は不可。シャワーのみ。
季節的にまだ寒いので、ちょっと不便。
しかし3月だから、ましといえば、ましか。


# by 50TEMPEST | 2019-04-26 15:48 | 見て聞いて考えた

前立腺がん手術日記【手術編 その1】

■前立腺がん 手術日記

前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。


【手術編 その1】


2019年2月15日 金曜

術前検査。
採尿、採血、レントゲンをこなす。
採血によるPSA値は、この時コンマの値になっていたと後で聞く。


3月6日 水曜

タクシーでA病院へ。
入院の手続きをする。6階個室601である。

大まかな流れの説明を受ける。
こうして、こうなっていくという流れの表を見て、非常にシステム的なものを感じた。
普通の人がこの手順をふんで、一定の時間がたてば、治っていくということなのだろう。

夕方までにシャワーを使う。

看護師さんが、へそのゴマの掃除をしてくれる。後で別の看護師さんがチェックに来た。それだけ大事なことなのだろう。

思い出したのは、嘘か本当か、盲腸の手術ではあらかじめ下の毛を剃るのだと聞いたことがある。生検の時も今回も、そんなことはしなかった。

仕事のできそうな手術室看護師からも段取りの説明あり。

一応普通には眠った。


3月7日 木曜

朝から絶食。

朝、先生がのぞいてくれて、今いつものチームが集まってくれている、昼にしっかり休憩をとってからかかるので、安心していてくれとの話あり。

手術は13時30分から。所在なく午前を過ごす。浣腸などあり。

妻と娘が到着。
気持ちは落ち着いているつもりだが、妻から後に聞いたところでは、顔色が青ざめていたらしい。

時間になり、手術衣に着替えていったんハイケア室(ナースセンター隣室)へ。

さらに手術室へ。
名前、生年月日、手術の部位を言わされる。
ストレッチャーから隣の狭い手術台に移る。
麻酔科医の女医が声をかけてきて、まず背中に麻酔(硬膜外麻酔)開始。
その後マスクを当てられ、その先は覚えてない。

名前を呼ばれて気づいた。
「今、3時すぎです、早く済みましたよ」「59分でした」と言われたが、頭が回転しない。
腹を開けて、閉じるのに1時間と聞いていたから、正味の摘出手術に1時間かかっていないという、手際のよさを言ったのだろう(後で思うに)。
一般的には3時間とか、かかるらしい。先生の腕自慢。

ハイケア室へ戻る。
その時、妻たちは取ったものを見せられたようだ。
きれいに取れたから、写メをとるよう、さかんに勧められたとのこと。
後でその写真を見せてもらうと、10センチ強ぐらいの赤いもので、どこががんだかはわからない。

足につけた空気マッサージ機(血栓予防)がずっともんでくれるのが、気持ちいい

自分でも呼吸の安定を保って、マインドフルネスや数息観を試みる。痛みはない。

昔、父の腎臓がん手術の後、一晩ついたのを思い出した。親父は痛み止めをあまりしてもらえなかったか、痛い、痛いと言っていたなぁと。30年も前の話。

断続的にはそこそこ眠った


3月8日 金曜 術後1日

酸素のせいか、唇が渇いてかなわない。
朝、先生から氷をなめていいとお許しが出た。

身体を拭いてもらい、レントゲンを2枚。
肺炎を起こしていないか、などを見るらしい。

昼から食事(流動食)が出た。
食べたほうがいいのだろうと思って、できるだけ食べた。

手術衣から着替えて、車椅子で自室に戻る。

腹筋を使うなと言われているので、動きがソロリソロリになる。
腹の傷は、へその下、丹田あたりをタテに10センチほど。
寝起きや、咳の時に痛い。

夜から胃が不調。重く張った感じで、気分が悪い。
時々、ウィッとけいれんのような状態になるのが、腹の傷にも響く。

夜の食事は、ほんの一口だけ。

夜中、胃の気分の悪さで眠れず。
吐き気が出ることもあると聞いていたのだが、これも吐き気のうちかもと考えて、吐き気止めを点滴に入れてもらった。


3月9日 土曜 術後2日

朝からも、終日胃の不調が続いた。
思えば、きのうがんばりすぎたのだろう。
胃薬を出してもらう。

食事は無理にがまんして食べようとせず、口から食べることを体に思い出させればいい、一口でも食えたらよしと考えた。残った分ではなく、食べた方の分を見るように頭を切り替えた。

A食、B食、ふたつから翌々日のメニューを選べるようになっている。
午前中に聞きに来てくれるのだが、それ自体がうっとうしい。
「おまかせします」で済ませた。

痛み止めも入れてもらった。
自分は、切ったのだからこんなものだろうと思って、痛いとは言わなかったのだが、看護師さんからは、私は我慢する人という見方をされていたらしい。

胃の調子は、夜にはいくらかましになったが、調子が悪いと眠るにも難儀。
パイプ枕のパイプが痛くて、ほとんど眠れず。

よく朝、my枕を持ってきてほしいと妻にメール。
病院が近いので便利。

時間つぶしに、ラジオ、MP3プレイヤーなど持ってきてあるので、順に試す。
本はまだ読む気にならない。

何もしていないと、夜などはあれこれと考える。アイデアも浮かぶ。

「せん妄」が出るかもしれないと聞かされていた。つまり、あらぬことを言い出したりすることがあるらしい。
結果的に、それはなし。ずっと気は確かだった。

しゃべりがうまく口が回らない、声もよく出ない。
無意識にあちこちが緊張しているのだろう。

看護師さんと話していて、スポーツは何を見るかという話から、なんとその方もラグビー好きで、競技場まで見に行くぐらいの人とわかった。
ちょっと盛り上がって、元気が出た。


3月10日 日曜 術後3日

この日からけっこう食べられるようになった。
一皿全部とか、全体の半分とか、気分のままに、うまくないものは遠慮なく残す。

先生が、「少しずつでも自分で食べられればいいです。このぐらいの手術だと、今まではICUに3日いるのが相場ですから」と言ってくれたのが、頭の整理になっている。
つまり、けっこうなレベルの手術であり、思うようにいかないことがあっても、もう自室に戻って動いてる自分はましなほうなのだと考えられる。

食べられると、気分も明るくなる。
体力が回復するにつれ、「食べられるが、おいしくはない」という程度のメニューでも食べられるようになる。
食べるとか、眠るとかいうことにも、それなりの体力はいるものだと感じた。

腹のキズは痛い。動かなければいいのだが、寝起きはどうしても動くので痛む。

食事にしても痛みにしても、人より特別に回復が早くなるわけもないし、といって、人並みでない理由もない。

手術直後は、なぜか顎関節がスムーズでなかった。声も満足に出なかったが、この日あたりから、コミュニケーションが楽に。

軽い下剤(塩化マグネシウム)の投薬開始。


3月11日 月曜 術後4日

枕を替えたおかげで、前夜は長く眠れた。

食事は、苦もなく食べられるようになった。
ご飯は少なめにしてもらった。朝から丼みたいなご飯が出るのだが、それを見るだけで食欲が失せる。皆こんなに食べるのか?

毎日来てくれる妻にメールし、何か飯のお供になるものとヨーグルト、それからおやつにカステラか何かとリクエスト。
海苔か佃煮をイメージしていたのだが、こちらの気を読んで、好物の葉唐辛子の佃煮を持ってきてくれる。

この日で点滴を止めることになって、シャワーも解禁。針は残して点滴を外した。
頭を洗い、さっぱりした。
腹の痛みは一皮ずつ楽に。


3月12日 火曜 術後5日

前夜は、通して4~5時間眠れた。

今日の目標は便通開始。
朝から2度ほど、トイレに通う。
ベッドから立って、まわりを見回す余裕があった。

前立腺を摘出する時、直腸などともつながっているのをはがす。その後を縫いつなげてあり、固い便を出そうと力むと、そこがちぎれてしまうから、力んではいけないとの先生からの指示。
息を止めて力まないこと。多少は力まざるを得ないが、口をあけてするとよいと看護師からのアドバイス。

昼、やっと便通あり。
結局、:差し込み便器は使わずに済んだ。
寝るまでに3回排便あり。排便の動きに連動して、血尿がでる。

仕事関係の電話やメールがはいる。今回のことは伝えてないので少々うっとうしいが、ありがたいこと。

トイレに立つ時、腹の痛みはたいしたことなくなってきた。
ベッドの電動のおかげ。自力ではまだしんどいが。

太ももが細くなったような気がする。
たかだか数日動かずにいるだけで、ひどいものだ。


3月13日 水曜 術後6日

6時半の検温まで数時間は通して眠った。

こんな考えが浮かんだ。
煎じつめると、動物は上から入れて下から出す管であるのだが、付随する細かいパーツが付き、オートマチックに調整する機能も付いた。
人間は、口(上)からの入れ方を選択する脳の機能まで獲得した。

それが、出口あたりの小さいパーツのひとつでも取ったとなると、けっこうおおごとになる。
そのパーツが果たしている役割を周辺がカバーするようになるのだが、それにはやはり、それなりの時間がかる。

それだけではない。
手術で取り除くために麻酔するわけだが、半分死んだ状態にするわけだから、身体全体がもとのようにオートマチックに動く状態にまで目覚めさせるのは、簡単ではないということだろう。
入院で日数がかかるのは、案外その部分なのかもしれない。

切ったところがくっついていくとか、働きが戻るとかに要する、平均的な長さというものは、おのずと決まってくるのだろう。

妻と、仕事に戻ってからの尿取りパッドについて話した。
試しにアマゾンでいくつか注文してみる。

膀胱カテーテルから造影剤の食塩水を入れて撮影した。
前立腺を取り、膀胱と尿道を中抜きにつないだ部分がくっついているかのチェック。
問題ないとのことで、早ければ明日、カテーテルが抜ける。

このように、ひとつ手順を踏んで確認しつつ、回復のステップを一段上げていくプログラムなのだろう。まことにロジカルである。



# by 50TEMPEST | 2019-04-09 10:59 | 見て聞いて考えた

前立腺がん手術日記【検査編】

■前立腺がん 手術日記

前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。

【検査編】

2018年8月、月1回通院している泌尿器科クリニックから、PSA値が続けて高い(10以上)ので、前立腺がんの可能性がある、生検をして詳しく調べたほうがいいと思うと言われた。

もともと人並みには前立腺の肥大傾向があり、抑える薬を処方してもらっていた。その経過の中で、定期的に血液検査もしてきた。
それまでは、時々高めになり、また下がり、を繰り返してきていた。

生検をやる気なら紹介状を書くという。短くても2泊3日、最も手っ取り早くて、足の便のいいのは千葉駅前のA病院であるとのことだった。

いったん帰宅して妻と相談すると、やったほうがいいんじゃないと言ってくれるので、ふん切りがつく。

翌9月に紹介状を書いてもらい、A病院を受診した。

8月29日 水曜
月曜と水曜の午前のみが外来診療である。8時半から9時半まで(だけ)が受付というのに、たくさん患者が待っている。2時間近く待たされる。
その日は採尿、採血など、いくつかの検査のみ。
MRIでも調べるために、そのスケジュールの空き枠を取る。かなりいっぱいの状態で、翌月になる。

9月25日 火曜
MRIの検査のみ。

9月26日 水曜
MRIの結果、はっきりというわけではないが、怪しいので生検をやったほうがいいだろうということになった。
PSAはかなり有力な指標だそうだ。
東京では低めの数値でも、がんと見込んで検査を進めていく、しかし他の県では、前立腺がんは進行が遅いので、ある程度になるまで放っておくのだという。
そのあたりは、泌尿器科医が多いか少ないかの違いだそうだ。
とはいえ、私のように10を超えていると、かなりの確率でがんが見込まれるという。

検査日程等の話を詰めるのに、あらためて家族とともに来るように言われた。

9月28日 金曜
金曜日は予約診察日。深い話の必要な患者だけが来る。妻と受診。

待合室で見かけた何組かの方たちも、自分と同じような境遇なのだろう。深刻そうな顔つきで話し合っている人もいたが、こちらは前向きに見つけ、積極的に対応をとろうとしているせいか、気持ちの落ち込みはない。

前立腺生検の内容などを説明され、入院の手続きをする。
ここの先生はすごい数の検査をこなしてきていて、麻酔も自分でやる。麻酔をしないでやる病院もあるが、痛くしないから安心しなさい、とのことだった。

可能な限り早いほうがいいので、10月末に入院と決まり、せっかくならと個室を頼んだ。

10月31日 水曜
入院。手術日は木曜。
看護師からもろもろ説明あり。さらに手術室看護師からも詳しい説明あり。

11月1日 木曜
浣腸などして待機。
手術室に運ばれ、脊椎から局所麻酔。
年齢のわりに背筋がある、スポーツでもやっているのかと聞かれた。

肛門の前の方に針を10本ほど、順に打ち込んでいく。
針を打ちながら、「感触が、がんらしくないですね、ま、詳しく調べないとわかりませんが」などと言ってくれるので、そうなればうれしいことだがと、なにぶんかは楽観的になる。

部屋に戻ったが、下半身は棒のようで自分の体のようではない。動くことができない。
かなり時間がたってから、少しずつ動くようになってきた。
痛み止めは積極的に使ってくれるので、痛くはないが、ベッドが固く、枕も合わないので、寝苦しい。

時間つぶしに本でも読めるかなと想い、キンドルを持ってきたが、とうていそんな気にはならない。
何となくテレビの音を聞く。

11月2日 金曜
退院。結果は月末。

受診予定日の前に原因不明の肺炎になり、結果を聞きに行けず。
かわりに妻に行ってもらったが、教えてはもらえなかった。
考えればもっともで、深刻な病状の場合もあり得るし、相続等にもからむかもしれないものを、妻とはいえ簡単に教えてくれるわけはない。

12月10日 月曜
やっと元気を取り戻したので、結果を聞きに行く。

手術室の中での話にちょっと期待したが、残念ながら、2か所からがんが見つかり、ステージⅢとのこと。
特に1か所は先の方なので、手術としては取りにくい場所だという。

前立腺がんは骨に転移しやすいとのことで、転移がないか、あらためて次の検査の指示あり。
レントゲン、心電図、呼吸器内科の診断などを受ける。

この時点で、「もし手術するならいつ」になるかを聞くとよかったが、頭が回らなかった。
わかった時点で、すぐ手術の手配が始まるものと、何となく思い込んでいたので、翌月に入っていた仕事を、事情を話してキャンセルした。
実際には、そんなに簡単に進むものではなく、そこまでする必要はなかったと後でわかる。

12月25日 火曜
骨への転移を調べる。造影剤を入れてのCT、骨シンチグラフィ撮影。

12月28日 金曜
また家族同道でとのことで、妻と受診。
骨への転移はなさそうなので、前立腺を取れば完治の見込みとのこと。

治療のし方について、いろいろ説明を受ける。
開腹手術、ダヴィンチ(ロボット支援)手術、ホルモン治療、放射線治療などがある。言ってしまえば、当たり前だが一長一短。

今後の再発の可能性などを考えると、手術で取ってしまうほうがよいだろうとのこと。
先生は、開腹の症例が豊富、2000人近くやってきているそうだ。
こちらとしても、後顧の憂いなく取ってしまうのがいいだろうと納得して、開腹手術を選択した。

ついでに、手術の要領を動画にしたものも見せられた。
NHKの『プロフェッショナル』などで、名人の手術の様子を一緒に見たりしているので、妻とふたり、動揺もせず「へーえ」という感じ。
しかし、これは確かに安心につながる。

実は、その後、開腹せずに超音波でがんを焼き切る方法をテレビ番組で知った。また、元巨人の角氏が前立腺がんをやったのは知っていたが、彼の場合はトモセラピーなる方法だったそうだ。
これらの方式が長期的に見てどうなのか、私に向いているかなどはわからない。
私の場合は、前立腺自体が肥大してきていたことでもあるから、自分の選択としては、そっくり取ってしまうことでよい。
しかし、実際開腹でやってみての感想としては、腹を切ることのダメージや、尿漏れの副作用は小さくはない。
超音波などの新しい方式は、局所的に焼き切ることができるので尿漏れなどの影響が出ないようだ。かなり魅力だとは思う。また、だんだんそっちが主流になってきそうにも思う。

また、超音波にしても、ダヴィンチにしても、新しい方式でやる場合は、経験の豊かな医者がやってくれるかどうか、当たりはずれがあるかもしれない。
何がベストか、調べて腹をくくるしかない。

その日から、まずホルモン剤治療をやることになった。
肝臓に負担をかけるので、アルコールは禁止と言われる。
酒は、たいした量ではないが、毎日晩酌に飲んでいたので、ちょっと寂しい。
ネットで買った日本酒が数本手つかずにあったが、これは妻の料理酒となった。
夕食が早く終わってしまうこと、あきれるほどである。

後日、知人との新年会で「医者から薬の関係で禁酒を言い渡されましてね」なんて言ったら、逆に深刻そうに心配された。

また、手術時の呼吸の力にも影響があるとのことで、禁煙も。
もとからタバコは吸わないので、そちらは関係なし。

手術は3月初めと決定した。



# by 50TEMPEST | 2019-04-01 18:39 | 見て聞いて考えた

転居しました

ご訪問ありがとうございます。

下記に転居しました。
よろしければ、そちらにおいでください。

 心に届けコミュニケーション! こちら五十嵐人材育成ラボ


エキサイトは、ブログを書き始めるご縁があり、書き続けたものもたまっていますので、このままおいておきます。


また、ホームページのほうにも、お立ち寄りいただけましたら、とてもうれしいです。

 ★ホームページは こちら

ありがとうございました。

# by 50TEMPEST | 2014-11-18 10:19 | ごあいさつ

私のキャリア18 マイ記念碑を作れ

総務時代に思いついたキャリアの伸ばし方、ひとつはソリティア・モデルです。


もうひとつは、「記念碑」という発想です。
これば技術の会社にいたから生まれた発想かもしれません。

工事技術者がした仕事は、その人の記念碑になりますね。
それは世にたくさんあるうちのひとつでしかないし、一般に知られているものでもありません。

しかし、「これはお父さんが作った建物だ」と子供に言えたら、それは誇らしいものです。
皆、そんな誇りを抱いて仕事をしていると思います。

であれば、自分も「マイ記念碑」を作ればいいのだ、と思いつきました。
あれは俺が残した記念碑だと自分に誇れば、それでいい。


そんな目で、それまでしたことを思い出してみると、けっこうたくさんありました。
では、これからもどんどんマイ記念碑を作ってやろうと決心しました。

形に残る私の最大の記念碑は、つくばの研究所です。
そこに付属する社員寮もそうです。

私らしさという点では、本社ビルの掲示コーナーもそうです。
社内通達などが貼り出されていただけのうす暗い一角を、親しい広告代理店に相談して、イベント会場のような明るいポスターコーナーに一変させました。


人事時代は、海外勤務規程をはじめとして、新しい規定を作り、またそれまでの規程を改定しました。
関連して、社員が書く書式類も、体裁をそろえて、書きやすいものにしました。


そんなことを続けているうちに、記念碑は増えてきます。
それに比例して、自信もついてきます。

要は、自分の記念碑と思うと、めんどうな仕事もやる気になるということなのです。
自分事に引き寄せることの大事さをあらためて感じます。


誰が認めるものでなくてもよい。
自分の生み出したものが、会社のある時期を彩ってくれたとしたら、それは納得の仕事と言えるのではありませんか。
# by 50tempest | 2014-09-08 07:01 | 自己紹介

私のキャリア17 ソリティアモデルで専門性をつけろ

いろいろチャンスをもらえた総務時代でしたが、しかしその一方では、つまらないと思う気持ちも生まれていました。
スタッフ系は何をやっても、社内的に評価されるわけではありませんから。

結局便利屋で終わるのか、などと思いました。
便利屋が悪いというのではありませんが、当時は何か胸を張れない感じがありました。

では、自分の専門性をどうつけていけばよいのか。
そんなことを考えている時、ひらめいたことがふたつありました。


まず、専門性は周辺に広げればいいのだ、ということです。
これは、後に「ソリティア・モデル」と名付けました。

当時自分の専門といえるものを、思い浮かべていくと、領域の関連しないものがありました。
事務用品の調達、印刷の手配、株式、不動産…、総務は幅広く担当していますから、与えられる仕事の経験だけでは、互いに関連の薄いものもあり、それが「便利屋」感になっていると感じられました。

その間が埋められればおもしろいな、と思いました。
当時流行っていたソリティアというゲームで、降ってくるマスを、凹んだところに落とせば、グリッと地平線が下がる、あの感覚で何かが生まれるのではないかと思えました。

たとえば、オフィス家具ならオフィス家具に詳しくなります。
それはそれで必要です。

そして、それを深めるだけでなく、隣接領域にも関心を持って勉強していくのです。
家具のあり方と人間の疲れ方との関係はどのようなものか、家具を調達するために使えるリース契約とはどのようなものか、といった具合です。

たとえば前に担当した不動産の知識などがあるとしたら、それとつながって、ファシリティマネジメントといった専門領域が生まれたりします。
関連づける意識がポイントです。


単にあれとこれができるにとどまっていれば、たくさんあったとしても便利屋ですが、ひとつ上の次元の専門性を生むという意識で取り組めば、相乗効果を持つ、おもしろい仕事が作り出せるのです。
# by 50tempest | 2014-09-01 07:00 | 自己紹介

私のキャリア16 若者が風を変える

私が、どうやって広報という仕事に行きついたのかです。
時代の流れ、人のつながりが大きいです。

私は、もともと総務畑でスタートしました。
前にも書いたように、新しい会社で自分らしい仕事をしようと決めていましたから、担当する仕事ごとに、あれこれ変化をしかけました。

時代は大きく変わってゆきましたし、会社も伸びていた時期で、新しいチャンスがまわってきました。
思い返しても、いろいろできたものだと思います。

例を挙げると、
デスク、チェアをグレーから今風のものに入替
会議室の家具を、折り畳みテーブルとスタッキングチェアに入替
ワードプロセッサ(まだパソコンではなく専用機)の普及
本社ビルの増築、などなど。

総務だからやれたことばかりです。
もちろん上司が認めてくれたおかけでもあります。

担当した仕事の中で、何かを変えようと思えば、それなりに勉強は必要です。
それは本で学ぶだけでなく、外の世界を見て歩くことも含めての「仕込み」と言えるでしょう。


さて、30代半ばのある時、同年代のH君が、休眠中の社内報をリニューアルして出すことを手伝ってくれないか、と言ってきました。
当時、創業者のジュニアが次の経営者として入ってきて、彼はその秘書のような立場でした。

ジュニアも同年代。
会社に停滞感の漂っている時でしたので、彼としても、何か空気を変えようとしていたのかもしれません。

ジュニアが発行責任者で、私とH君が自由に企画し、かつ書きました。
新しい感覚の社内報は、幸い、社内に新しい風として受け入れてもらえました。

企業広報は、そのH君が先鞭をつけました。
問題の本質をとらえて打つべき手を考えるといった先見性にすぐれた仲間でした。

広報となると、外部との窓口が必要です。
組織上、窓口となるうちに、私のほうが仕掛けるようになっていったのです。

広報では、広告代理店とのつきあい、メディアとのつきあいなど、それまで知らなかった世界が広がりました。
広告代理店とのつきあいなど、それまでほとんどなかったのですが、ある時、顧客である日経新聞からの依頼で大型広告を出さなければいけなくなり、H君の人脈で、中央宣広とつきあいが始まりました。

彼らが、無から有を生み出す力、煩雑なことをまとめていく力は、私にとって刺激的でした。
また、こちらが思いをしっかり伝えるほど、よい仕事になることも知りました。

広報マンは、どこまで自分で、責任というリスクを背負えるかの仕事です。
記者の質問にどこまで答えてよいか、どこまでとんがった広告を通せるか、局面ごとに決断を迫られました。

そうしたことは、それまで会社の「あるべき姿」を考えながらやってきたことが、役にたったと思います。
また総務で幅広く経験したことで、問題意識も養われたように思います。


同業他社が、背面ヌードを使った、地道な業界にしては大胆な広告を打ちました。
やられたと思いました。

しかし、大手のひとつである自社が、それを冷ややかに見ているのではつまらない、何かできないかと思いました。
優秀な新人を採るには、こんな元気な業界があると知ってもらう必要がありますが、こちらも何かすることで、業界の認知向上に相乗効果が生まれるかもしれません。

年間計画に沿った戦略的な広告の必要を感じて、当時あった広報委員会の長である常務に相談しました。
少しふっかけた予算案はさすがに削られましたが、2億円の予算をとってくれました。

もともとお金を使わないことでは天下一品の会社でしたから、目を疑いました。
20年以上前の2億です。

それが、前に述べた毎日事件につながるのです。
# by 50tempest | 2014-08-25 07:59 | 自己紹介

私のキャリア15 企業広報として

大阪で人事部長とケンカをし、それがキッカケで人事課長になってしまったのですが、その大阪に行く前には、大阪支社長にたいへんな迷惑をかけたのです。

当時、私は総務課で広報を担当していました。
新規採用で苦戦している中、会社の存在や実績を世の中に知っていただく必要があると考え、主要紙連動で、創立記念の広告を企画しました。

主要紙に一斉に1ページ大のカラー広告が、しかも創立記念日の前日に乗れば、社内に向けても、会社が変わりつつあるとアピールできます。
ところが、予算が少し足りませんでした。

日経、朝日は動かせません。
読売をとるか、毎日をとるかで迷いました。

実は、毎日新聞は大阪支社のお客様でした。
それは知っていたのですが、エイッと部数の多い読売を選びました。

何か言われるかなと思いながら稟議を書くと、社長まであっさり通ってしまいました。
一応OKをもらったわけです、「どこに出さない」とは書いてありませんが。

掲載当日、バッチリ出た広告を見て、やったぞと思っていると、大阪支社長から電話が来ました。
「あれは何だ」というわけです。

朝、毎日新聞から呼ばれて、答えられなかったそうです。
それはそうでしょう。

どんな場面が繰り広げられたか、今なら想像がつきます。
お客さんにしてみれば、腹の立つことでしょうし、会社としてそんな大がかりなことをしておいて、幹部が知らないわけですから。

冷や汗をかきながら、電話で事情を話しました。
リクルート目的であること、少しでも広く知らしめるために部数の多い新聞を選んだこと…。

電話の向こうの支社長が言いました。
「よし、わかった。大阪で持つから、直近で同じように出せ」

怒鳴りもせず、ポンと予算を出してくれました。
私にとっては、時間がずれたとはいえ、主要紙全部に出せたことになりました。

今思えば、ひどいことをしたものです。
スタッフの横暴と言おうか、営業の大変さを知りませんでした。

ちゃんと根回しして、少し予算をもらえないか、と事前にかけあうこともできたのです。
しかし、新聞にとりあげてもらったり、ちょっと気の利いたCMを出してみたり、それまでとは違うことを始めていたので、仕掛け人として、少しは私の名前を知っていてくれたのかもしれません。


もともと広報という仕事はありませんでした。
もちろん予算もありませんでした。

「うちは広告はしない」とトップが公言していたのを、少しずつ風を変えて、一時は億という単位の予算をもらえたのです。
一番最初に、大番頭である副社長の部屋のドアをたたく時は、腹をくくったものでしたが。

リスクを背負っても、一歩踏み出す仕事をしていれば、その周期はどんどん大きくなるのだと思います。
後に私が管理職候補になった時、この副社長が、「あいつはいい。あいつは自分の考えを持っている」と、真っ先に認めてくれたと聞いています。

では、どうやって広報という仕事に行きついたのか。
それは次に。
# by 50tempest | 2014-08-18 07:58 | 自己紹介

私のキャリア14 本社の回し者

人事に回されたのは、大阪時代、人事部長に反旗をひるがえしたせいです。
入社当時は、何となく人事志望ではありましたが、こんな形で実現するなどとは思っていませんでした。


大阪には2年いました。
1年半は営業部、後の半年は総務課でした。

行った当初、「支社長のお目付けに送られてきた、回し者だろう」などと、冗談半分に言われたものでした。
定期異動というものが始まって、第一号だったからです。

しかし、皆、温かく接してくれました。
それまでの本社総務部時代とは違う、たくさんのことを学びました。


その1 自分で稼ぐという、ある意味シンプルな理屈を知ったこと。

ある地方の営業所長が、営業会議で言いました。
「あの物件とこの物件のめどがたちました。うちの店も、今年も飯が食えますわ」。

地方の工事物件は限られています。
これとこれが取れれば、店の経費と、自分の給料と、上部組織の経費が出るというわけです。

ああ、仕事とはこういうものなのだ。
地方では、こうやって稼いでいるのだと、腑に落ちました。


その2 大阪の独立の気概を知ったこと。

当時、関西国際空港を作ろうという機運が盛り上がっていました。
名だたる関西系大企業のトップたちが、その実現に向けて、連絡会を作り、人を出して活動していました。

かなりお膳立てを作ってから、建設省OBを社長につれてくるといった進め方に見えました。
東京だったら、すぐ国からの金を引き出す算段とか、政治家を抱き込む工作とか、いろいろ聞こえてきそうです。

そうでないのは、ここが関西なのかなあと思いました。


その3 本社からの文書のわかりにくさを感じ、反省できたこと。
地方で受け取る文書は、まことに舌足らずで、わかりにくいものでした。

自分自身が書く身の時は、できるだけ簡潔に書こうなどとしていたものでした。
それ自体は間違いではありませんが、本社にいると、東京という地理的なバイアスや、上層部のあれこれが何となく聞こえているという立場的なバイアスがかかっていたのです。

そんなものがない立ち位置から、送られてくる文書だけを読んだ時、「どうせいちゅうねん」と突っ込みを入れたくなるのでした。
まことに冷や汗ものでした。


その4 歴史を体で学べたこと。

営業部では、ある時期、各地方自治体に書類を提出するという仕事がありました。
また、手形などを集金してくるのも、営業の仕事でした。

営業部とはいえ、私は管理業務の課長なので、支社の事務所にいると、毎日退屈でした。
思いついて、これらの外出を引き受けました。

本来の営業マンは、本来の前向きの営業活動をしてください。
支援的な仕事は私がやります、というわけです。

おかげで大阪市内や、近郊の街々を見て回ることができました。
たたなづく大和の山々を電車の窓から眺めたり、古墳の現物を見たりすると、古代の歴史の感覚が体でわかる気がしました。


さて、支社内の人事の都合で総務課長になり、しばらくすると、本社から人事部長が来ました。
転勤旅費の規程を改定することの説明でした。

要するに、会社負担の上限を作るので、今より少し自己負担が出るとの説明がありました。
それはおかしいでしょうと、人事部長と言い合いになりました。

経費を抑えたいという考えはわかるが、これから大いに人を動かして、社内に刺激を与えようとする時、動いた者が大きな経済的負担を強いられるのでは、はずみがつきません
ある方向に水を引こうとするなら、そこに障害物を置いてはいけないはずです。

翌日、実際にあった家族帯同のケースで試算すると、少しどころか大幅に自己負担が出ることがわかりました。
これは大変と、他の支社の総務課長に連絡をとって試算してもらうと、どこも自己負担が出て、驚いていました。

改定の説明は受けながら、たいしたことはないだろうと、誰も試算していなかったのです。
私自身は単身赴任で、初期経費はあまりかかりませんでしたが、自分の経験をフィードバックすることで、転勤制度を整える情報にしてもらおう、それが第一号の責任だとと思っていたので、試算する気になったのです。

早速、この実情を支社長に報告しました。
支社長も驚き、預からせてくれということになり、この案は結局、経営会議を通っていたにもかかわらず、発表されないまま、実質廃案になりました。

当時の支社長には、感謝しています。
それまでも色々やらせてくれたばかりでなく、あろうことか、決まった案にたてつくのを聞いてくれ、したくもない社内工作もしてくれたのでしょう。


ホッとしていると、間もなくまた次の異動シーズンがやってきました。
また異動になるから、本社に行って内示を聞いてこいというので、首を洗って、人事部長のところに行きました。

何と、今度は人事部人事課長だとのこと。
けんかした人事部長の元で働くことになってしまったのです、やれやれ。

ちなみに、転勤旅費の規程は、私が着任後に作り直しました。
今思えば、私は、扉は押せば動くものと信じ、また押すのが自分の役目と考えていたようです。

実は、大阪支社長にも、大阪転勤の半年前に、たいへんな迷惑をかけたのです。
それなのに、定期異動の制度ができ、まず動かしやすいスタッフ系からはずみをつけていこうという時、稼げもしない私を引き受けてくれたのです。

キャリア形成に大きな力を果たすのは、不思議な人間のご縁です。
そのあたりのいきさつは、次に。
# by 50tempest | 2014-08-11 07:56 | 自己紹介

私のキャリア13 革新系?人事として

私のサラリーマン生活をふりかえると、ほぼ二分されます。
前半は総務時代、後半は人事時代、その間に2年間の大阪支社生活がはさまります。

人事時代は、給与体系、時間管理体制など、いろいろな改革に取り組みました。
思えば、会社も経営基盤が固まり、当時の人事部長が組織を整えていく時だったと思います。

前にも書いたように、会社を変えることに喜びを感じていましたので、充実して仕事ができていたと思います。
自分のやりたいことが、会社という舞台でできたのは、幸せなことです。


マネージャーとしては、部下たちに、改善を求めました。
わかりにくい規定や申請書類を、社員にフレンドリーなものにするといったことです。

新しいことに取り組んだ人には、年末に、「やったね賞」なるプライベート表彰を行いました。
この時もらった表彰状を「10枚ためると、座布団がもらえる」というルールでした。

人事は「ひとごと」などと言われるように、社員側からは、あまり温かい部署ではないものです。
相談しても、「それはできない」といったお役所のような答えが返ってきて、親身に相談に乗ってくれない、そんなイメージはありませんか。

会社全体を見ることが求められる部署なのですが、その目線から「N分の1」の事象であっても、その当事者にしてみると「1分の1」なのです。
その感覚を忘れてほしくないと思いました。


自分としては、それなりに勉強した時代です。
着任当初は、労働法を勉強しなおしました。

大学では法学科でしたが、労働法はほとんど勉強しなかったためです。
しかし、大学で得た法律感覚は、規定作りなどで役立ちました。

その後は、社会保険労務士の勉強をしました。
年金支給の繰り下げが始まり、定年退職していく社員に、そのあたりのことをうまく説明できなくて申し訳ないと思ったのがきっかけです。

若い部下が資格の学校に通っていると聞き、自分でコツコツよりも、今はそういう手があるんだと教えられ、自分も通いました。
いろいろあって、社会保険労務士の資格はあきらめましたが、年金に詳しくなったことは、自分のことでも本当に役に立ちました。


実は総務時代に、人のいない関係会社に手伝いに行かされたことがありました。
そこでは半年弱、給与計算、年末調整など、総務も人事も何でもやりました。
経験がまったくなかったので、明日の手続きに、前日にマニュアル本を見ながら書類を書くという始末でした。

しかし、その経験が、後の人事時代にどれほど役立ったことか。
あの経験はつらいものでしたが、人生に何事も無駄はないと、しみじみ思いました。


さて、人事に回されたのは、大阪時代、人事部長に反旗をひるがえしたせいです。
そのあたりは、次のお楽しみ。
# by 50tempest | 2014-08-07 07:32 | 自己紹介

加山雄三さんの三感

感心、感動、感謝
# by 50tempest | 2014-04-22 22:16 | どこかで知った名言・至言

私のキャリア12 稼ぐ感覚を知る その2

管理部門が子会社化され、稼ぐことを求められることになりました。
勝手のわからないことばかりでしたが、ここから何を学ぶかが勝負だと思っていました。


アウトソーシング会社として管理部門(人事、総務、経理、後にシステム部門も合流)を別会社化し、子会社側は専門能力を活かして、本体だけでなく他の会社にもサービスを提供することで稼ぐというビジネスモデルでした。
同時に、本体にとっては人件費を変動費化し、その他の経費も経済論理にさらすことで圧縮しようというねらいもありました。

会社の立ち上げから担当しました。
会社とはいっても、管理部門の人間たちですから、どうすれば「稼げる」のか、はじめは本当にわかりませんでした。

その後、他部門や、外部から「稼ぐ」感覚を持った人が加わりました。
私の目には、彼らの発想はとても新鮮に映りました。


その会社には、本体の「一般職」という補助的業務を担当していた社員(現実的にほぼすべて女性)も転籍し、本体は「一般職」を廃止するという改革も行われ、これも、人事として私が担当しました。
人を切らずにできるリストラとして、苦心の施策だったと思います。

しかしながら、リストラであることには違いないわけです。
それまで会社は、「経営は盤石」、会社に身をゆだねて、日々まじめにやってさえいればよいのだと言っていただけに、「こういうことは起こるのだな」という感慨がありました。

やはり、自分の仕事人生は自分で築き、自分で守っていかなければいけないのです。
交流分析を学んだり、セミナー通いでたくさんの外部の人と付き合い始めたのは、その頃からです。


私は、上司に冗談で「過激派」と言われたほど、変革をしかけてきた人間です。
制度改定や問題解決に喜びを感じてやってきました。

とはいえ、管理部門、特に人事は、立場が上がるほど、調整的な仕事が増えます。
本体から離れた視点からふりかえると、何と遅い仕事ぶりだったか、と思えました。

そんな考えが高じてきて、自分の新しい立ち位置を開拓すべきタイミングになったとき、新しい事業の柱を作ることにチャレンジしようと思ったわけです。

自分のやりたいことと、会社が求めることとは、必ずしも一致しません。
しかしそんなとき、双方の方向性のベクトルが、裏表なら論外ですが、そこそこ似たものならば、そのベクトルの和(平行四辺形の対角線です)の形で、ウィンウィンの方向が見いだせると考えました。


新事業に挑戦する気になった背景や動機をふりかえってきました。
それができたのは、恵まれた立場だったと思います。

部門が子会社化されることで、それまで普通のまじめな人事屋だった自分の意識が変わったのです。
しかし、それまでに積み上げてきていたものが無駄になったわけではありません。

人事屋として、また管理職として、スキルなりマインドなり、それまでのものがあったから、自己肯定感を持って臨めたと思います。
では、そのあたりを、さらにふりかえってみましょう。
# by 50tempest | 2014-02-28 09:42 | 自己紹介

私のキャリア11 稼ぐ感覚を知る その1

管理部門育ちの自分が、研修事業を社内ベンチャーとして立ち上げようと、なぜ考えるに至ったのか。

たどると、その数年前に、管理部門が子会社化されたことがきっかけです。
おかげで、考え方がだいぶ変わったように思います。

まず、自分の給料を自分で稼ぐという、当然のことに目覚めたこと。
ずっと管理部門育ちでしたから、頭ではわかっていても、事業会社になることではじめて、その大変さ、またそのためにはどうすることが必要なのかがわかりました。

次に、武器としてスキル、経験を積む必要を再認識したこと。
財務は万全だから安心して身を任せていなさいと、会社側は言い続けてきていましたが、首を切られたわけではないとはいえ、どんなことも起こりうるのだ、自分の身は自分で守る必要があるのだと、あらためて思いました。

もうひとつ、チャレンジすることの面白さを感じたこと。
会社を回すために、経営的な視点からあれこれと試みることが増え、何かやって結果を生むという刺激的な感覚に慣れていきました。


苦闘しながらも、ふと気づくと、子会社側は少しずつでも意識が変わり、変化を求められなかった本体側の意識は昔のままでした。
まして、外部の人たちの感覚を知ると、育った世界の時計の回り方が少し遅いように感じました。

多くのサラリーマンは、ある年齢になると、自分のサラリーマンとしてのゴールのイメージを持つと思います。
私もひとりの人事屋として、多少へそ曲がりで改革派とはいえ、大枠ではまじめなサラリーマンでしたから、最後は人事部長ぐらいにはなれるかな、などと思っていました。

それが、子会社化によって大きく変わりました。
思い浮かべた形にはなりませんでしたが、逆に世の中を知ることができたし、たくさん学ぶことができました。

むしろ、幸せだったと思っています。
何を学んだのか、次で、少しくわしくみていきます。
# by 50tempest | 2014-02-24 09:40 | 自己紹介

私のキャリア10 新事業に挑戦

講師としての独立について、書いてきました。
では、その前はどうだったのか。

その前の2年間は、レモン・ビジネス・アカデミーという事業の責任者をしていました。
これは、企業研修・セミナーをビジネスマンに提供する事業です。

会社自体はアウトソーシング、人材派遣という事業をしていました。
その中で、社内ベンチャーとして新事業を提案したのです。

それまで自分が担当していた親会社の人事業務については、ある程度人も育ち、人件費の高い自分が担当し続けるのは適当でないという流れにありました。
自分の組織への貢献として何をするかを考えなければいけませんでした。

そこで、研修の事業を立ち上げられないかと考えました。
それまでもグループ会社の研修などをしていましたし、自分自身セミナーに出るのも好き、また、あちこちの研修会社の体験セミナーなどものぞいていたので、これなら大きな投資もいらないし、うまくいけば、何人かは食べていけると思いました。

こんな発想は、藤原和博さんに刺激されたものです。
彼が、会社の資源を自分のために活用する生き方として、会社の方向性と自分の方向性のベクトルの和という考えを書かれていて、なるほどと思ったのです。

ビジネスモデルとしては、研修講師くさい既存の方よりは、個人向けにセミナーをやっている講師さんで、よいコンテンツをお持ちの方がたくさんいらっしゃるので、そういう方を企業につなごうと考えました。

また、会社に広い会議室スペースがあったので、ここで夜のセミナーと研修の体験セミナーを開きました。
存在を認知してもらいつつ、講師さんとのご縁を作りました。

この時期にお知り合いになった方たちには、今人気の方たちがたくさんおられます。
水野浩史、渡瀬 謙、心屋仁之助、倉島麻帆、福島 章、木戸一敏、矢矧晴一郎、開米瑞裕、今井 孝、三宅潤一、長尾 彰、下田令雄成、朝倉千恵子などなどの各氏(書き切れません)。
感謝の一言です。

ビジネス自体は、イメージ通りには進みませんでした。
素人同然で、手さぐりしつつですから、当然といえば当然かもしれません。

しかし、何事もやってみなければわからないもの。
やってみたことで、得るものはたくさんありました。

こうした経験が、後にどれだけ役にたったかしれません。
また、私自身も経営ばかりでなく、講師として登壇したり、商談を進めたり、夜はネットに告知を書き込んだりと、1人4役ぐらいの仕事をしましたので、濃密な2年間でした。

また、榊原重朗先生は、彼が体験セミナーの参加者として来られたときからのご縁です。
この後、ご縁がどんどん深まり、今も「師」の1人であります。

ビジネスとしては2年やって、多少の感触が得られたように思えましたが、社内事情もあり、一応ケリをつけることになったわけです。
では、私がどうしてこんな「無謀」なことをやりたいと思うようになったか、さらにさかのぼりましょう。
# by 50tempest | 2014-02-17 09:37 | 自己紹介

私のキャリア9 適職選びのフレーム

キャリアカウンセリングでは、仕事選びのフレームとして、興味、能力、関心の3つで考えることをします。

私自身も、その面から考えました。


◆興味…仕事にどの程度興味を感じるか、どんな興味を感じるか

会社勤めを続けて、起きてくるだろうことに、興味を感じることがあまりできませんでした。
ひととおりのことは経験した感がありました。

立場が上になるほど、調整的な仕事が多くなりますし、当時の雰囲気では、消極的な方向での調整が中心とも見込まれました。
組織やヒト・モノ・カネを動かすこと自体が好きという人もありますが、私はそうではありませんでした。

独立については、講師になる上で、教えること、育てること、話すこと、演じること、そしてそのことに自分の体を使うことは、とても楽しく感じられました。
そのために自分自身が学ぶことも楽しいことでした。


◆能力…必要となる力を持っているか、それは競争力があるか

勤めを続けるなら、ある意味慣れた仕事です。

独立ついては、それまで見てきた多くの講師さんを思い起こすと、自分自身がそれまで色々と身につけてきたもので何とかなると思われました。
特に、自分がやってきたワークショップ形式で受講者から引き出しながら進めるスタイルは、一応のレベルだろうと思いました。

もちろん、このあたりは、独立後に未熟さを思い知らされるのですが、多少根拠は薄くても楽観的に考えなければ始まりません。
講師になりたくて、あれもこれもと学び続けているものの、結局飛べていない方に出会ったことがあります。


◆関心…その仕事に意義を感じるか、自分がする上でどんな意義を見出せるか

会社に勤め続けるなら、リベラルな幹部として、会社をよりよくすることはできたでしょう。
ただ、当時の会社の状況を考えると、55歳の私があるポストを占めるより、もっと若い人に積極的に経験を積ませるほうが得策だと思えました。

独立については、自分が学び、経験したことをお伝えするのは、世の中にもお役に立つはずと思いました。
人の生き方としても、教えてもらう立場から、それをお返しする立場になるのは意味があると思えました。
私が会社に入った当時、定年が55歳でしたから、その意味でも、立場を変える節目としては適切だと考えたわけです。
# by 50tempest | 2014-02-10 06:41 | 自己紹介

私のキャリア8 転機での選択

会社の役割上の転機をきっかけに独立したと書きました。

おとなしくしていれば、ある程度計算できる人生が続き、新しい道に踏み出せば、道の人生となります。
当然、踏み出すことで失うものもあるわけです。

いろいろ天秤にかけて考えることになります。
あれもこれもと載せてみても、先々読めないことはたくさんあります。

何を天秤にかければいいのか。
そのあたりが、キャリアカウンセラーの勉強をしたおかげで、少し冷静に考えることができました。


A それまでの会社生活を続けて得られるもの
 ・月収、年収
 ・退職金(増える分)
 ・年金
 ・生活レベル(と若干の誇り)
 ・信用(特に経済的な)
 ・経済的な安定

B 独立で得られるもの
 ・自分ならではの仕事の意義
 ・ダイレクトな感触
 ・日々の刺激
 ・自由(特に時間的な)
 ・組織人としての負荷(特にストレス)の減

そのうえで、私はBを選んで飛ぶことができたわけです。


AとBとが、単純な裏返しの関係にあるわけではありませんが、いくつかは、それに近い感じがありそうですね。

会社生活には、経済的安定や身分的安定があるわけですが、その見返りとして、時間の不自由さやストレスがあります。
独立して「自由業」になれば、まさに時間は自由になるものの、自由にばかりしていては食べていかれません。

しかし、人生とは「与えられた時間」だとするならば、もともと自由な時間をどれだけお金に換えるか、また別のことに充てるかの問題です。
独立して、安定的収入が失われたとしても、ゼロになるわけではないし、失う分に見合う何かが得られるはずだと考えました。

考えを拡げるなら、勤め続けても、会社がなくなってしまうとか、解雇されてしまうとかの可能性もあるわけです。
また、独立後に始めた何かが当たって、ウハウハお金が入ってくる可能性だってなくはありません。

ただ、そんなことまで考えに入れてしまっては、何も決められなくなるのです。

結果として、私は今、時間的にさほど忙しくしているわけではなく、自由な時間として得られた分は、ネタ作り、先への仕込み、妻との共有、母との共有、好きなものを楽しむといったことに、自分で決めて使えていて、とても幸せを感じているというわけです。
# by 50tempest | 2014-02-07 06:38 | 自己紹介

私のキャリア7 講師の喜び

学ぶことは、ほんとうに楽しいです。
学ぶことは、生物として生きる上で役にたつことですから、それは本来楽しいはずなのです。
神様は、そのように作られたはずです。

半面、 人は変わりたくありません。
今ある状態は、少なくとも生存が確保された状態です。
変わることは危険を招くことかもしれませんから。

また、その人の環境や境地から、自分だけでは、必要なことに気づかないことは多くあります。
そもそも何が必要かさえ、人はわからないものです。

そんなパラドックスを超えるきっかけを提供するのが、講師だと思います。

その人が学ぶ喜びに気づけたとき。
その人が悩みを突き抜けるきっかけが得られたとき。
それこそ、講師冥利に尽きる瞬間ですね。

講師自身も、お役に立てる喜び、新しい気づきを、受講者さんから得ています。
乞食と役者は三日やったらやめられない、などと言いますが、講師もそうかもしれません。

これからも、体のきく限り、頑張り続けたいと思っています。
# by 50tempest | 2014-02-03 06:37 | 自己紹介

水五訓

水五訓

一、自ら活動して他を動かしむるは水なり

二、常に己れの進路を求めて止まざるは水なり

三、障害に逢いて激して勢力を倍加するは水なり

四、自ら潔くして他の汚濁を洗い清濁合わせ入るる量あるは水なり

五、洋々として大洋を充たし、発しては蒸気となり雲となり雨となり、雪と変じ霰と化し、
   凝しては玲瓏たる鏡となり而もその性を失わざるは水なり

     ・・・永平寺管長の教え
        樋口武男著「熱湯経営」より
# by 50tempest | 2014-01-30 09:17 | どこかで知った名言・至言

私のキャリア6 なぜ講師か

会社を辞めてフリーの講師という道を選んだのですが、なぜ講師だったのか。

その前に、仕事人生でそれなりのことができている方なら、ほとんどの方に同意いただけるだろうことがあります。
それは、こんな感覚です。

人生のさまざまなタイミングで、ちょっとしたチャレンジもしつつ、夢中で生きてきた。
そして、ふとふりかえってみたら、人生のラインが、何かあらかじめ計画されていたように思える…。

これは、「ブランドハプンスタンス(計画された偶然)」というものです。
私も、ほんとうにそれを感じるのです。


平成13年の年末に、日本交流分析協会関東支部が年明けに開催する集中講座に申し込みました。
この1歩が、自分の人生を変えたと言えるでしょう。

講座では、交流分析を体系的に知ったことはもちろんですが、他にも多くのことを得ました。
自腹を切って学ぶ場があるのだということ。
それらは、インターネットの発達により、手を伸ばせば簡単に届くこと。

自分のきゅうくつさが、心理学的に整理できたこと。
心理学を学んでも、自分自身は大丈夫であること。

大学などで経験してきた講義形式だけでなく、ワークをしながら楽しく学ぶという手法があること。


そして、「定年になったら、講師として人に教えられるようになれるといいな」と、漠然と思いました。
自分も学ぶことは好きで、社内では勉強家の部類。
学んだことが人のお役に立てられるならうれしいし、自分も楽しい。

それまでも、社内研修で立場上、講師を務めることはありました。
いかに眠らせることなく、たくさんのことを伝えるか、ささやかなモチベーションにしていました。

でも、それは何と無意味なことだったでしょう。
身体で感じない(腑に落ちない)ことは、人はやらないし、簡単に忘れてしまうのです。


その後、休日のセミナー、夜のセミナーなどなど、興味にまかせて参加するようになりました。
自腹で学ぶ話は身に付くことに驚きました。

しばらくぶりで人に会ったらインストラクションの研究会に誘われる、などといったことも起こりました。
そんなつもりではなかったのに、結果的に講師への道に役立ったということも多くありました。

そうしたあれこれが、今の自分のネタになっているし、スキルにつながっているのです。
むこうから寄ってきた感さえします。

ふと気がつけば、定年前に、プロ講師になってしまっていました。
ぼんやりと思い浮かべたことから始まり、あとは興味に任せて、目の前に選択肢が現れた時は少しだけ積極的な道を選んできただけなのに。

そんな感覚が、「ブランドハプンスタンス」というのだということも、後から知って膝を打ちました。
学ぶことは、ほんとうに楽しいです。


次に続きます。
# by 50tempest | 2014-01-27 06:35 | 自己紹介

私のキャリア5 独立へ

会社を辞めてフリーになろうと考えた直接のきっかけは、勤務先での人事異動の内示です。

諸事情から、2年間主宰していたレモン・ビジネスアカデミーを閉じることになりました。
しかし、社内ベンチャーとして自分で企画提案し、「人を育てる仕事」に魅力と意義を感じてきた私は、他の仕事には興味が持てませんでした。

ただ、相手が社内であっても、それはOKでした。
そこで、ラインをはずれて社内の人材育成とメンタルヘルスの専任担当となるのはどうかと、トップに提案しました。

そんな提案の背景には、リクルート社で藤原和博さんの例がありました。
彼のように、専属ではなく契約社員的な身分で、机はもらうが、他社の仕事もしてよいという、ゆるい関係を実現できたならすばらしいと考えたのです。

しかし、いきなりそんなことを言いだしても、人繰り上許されるはずもありません。
引き続きそれなりの給料をいただいて、おとなしく働き続けるか、やりたい仕事に思い切って飛ぶか、という大きな選択肢だけが残されました。


飛ぶ決断は、数日でつきました。
間もなく55歳の誕生日でした。

やるべき仕事とやりたい仕事。
それまでは、やるべき仕事に重点を置いた人生でした。
体力があるうちに、やりたい仕事にチャレンジしようと思ったのです。

そう考えるについては、いろいろ不思議な符合がありました。
郷里で入院中だった父が、その数か月前に死去しました。
母はまだまだ元気でした。
娘は、すでに就職し、自分で未来を切り拓いていました。
家のローンはすでに返済ずみでした。
諸条件が整い、私の前に道をなしていくように思えたのです。

また、何をてんびんにかけるか、整理して考えることができたのは、しばらく前にキャリアカウンセラーの勉強をしていたおかげでもありました。


では、なぜ講師だったのか。
次に続きます。
# by 50tempest | 2014-01-27 06:33 | 自己紹介

私のキャリア4 講師経験

フリーになって5年やってきたわけですが、講師自体は、、もう少し前からやってきました。

株式会社レモン(現グローバルスタッフ)に在職中から、レモンビジネスアカデミーの名称で、研修、セミナーを提供する事業を2年やっていました。

私自身も講師をしつつ、講師派遣やプロデュースなど、いろいろやりました。
実質私ひとりでしたので、経営的なことから雑務まで、何から何までです。

夜の勉強会セミナーを企画し、講師をアサインし(それは時々自分自身であったりするわけです)、意識の高い方たちと学びを共有し、懇親会で語り合う。
楽しい日々でした。

ここですてきな人脈もできましたし、ほんとうにいい勉強になりました。
この経験あって、独立しようという気持ちが生まれました。


その前は、グループ会社の人事アウトソーシング会社のひとつのサービスとして研修の提供もしていました。
ですから、講師経験だけとれば10年以上になります。

新任管理職研修、退職前キャリアプラン研修、新人研修など、自分でコンテンツを作って講師をつとめていました。
この新人研修は、独立後の今も、続いて担当させていただいています。


さて、そうした背景があっての上の独立ではありましたが、よく人から、じっくり仕込みをして独立したのでしょうねと言われますが、実はそうではなく、けっこう急に飛び出してしまったのです。

そのあたりの事情は、キャリア論的におもしろいと思います。
次回に。
# by 50tempest | 2014-01-20 06:32 | 自己紹介

私のキャリア3 クライアントの皆様

五十嵐人材育成ラボとして独立してから、今年の10月で6年目に入りました。

独立するなり、リーマンショックに遭遇しましたので、順調な船出とは言えませんでした。
これまでやってこれたのは、エージェントの皆さん、クライアントの皆さんのおかげです。

特徴として、今もっとも件数の多いのは、介護事業所の皆様向けの研修です。

実は、独立の前に父が介護のお世話になりました。
何か恩返しの形でお役に立てないかなと考えていたところ、いろいろとご縁が広がってきたもので、私の仕事で大きな意義を感じているところです。

 生活クラブ風の村様
 全国生協連様
 日本化薬メディカルケア様
 その他、多くの皆様ありがとうございます。

もちろん他業種でも、色々な領域の団体様におうかがいします。
長い長いおつきあいをいただく団体様もできたのは、講師冥利につきることです。

 東京建物アメニティサポート様
 ユアサ商事様
 城口研究所様
 その他、多くの皆様ありがとうございます。

変わったところでは、大学様とのご縁もできました。

 淑徳大学エクステンションセンター様ありがとうございます。

知名度の高い企業様としては、
 日産自動車様
 東海交通機械様
 郵便事業様
 東日本銀行様
 NTT東日本様
 などからも登壇の機会をいただきました。

またそれらも、エージェントとして私に場をくださっている皆様の力があってこそです。
 ホスピタリティ機構様
 ティーペック様
 日本経営協会様
 その他の皆様、ありがとうございます。

クライアントの皆さんとのやりとりの中から、学ぶことはほんとうに多いです。
世の中にはいろいろなお困りごとがあるものだと思うのと同時に、何とかお役に立ちたいものだと、努力するのです。
# by 50tempest | 2014-01-13 06:30 | 自己紹介

私のキャリア2 わが師たち

講師という人種は、それまでいろいろ学んだことを、消化、昇華、ショウ化してお伝えしているのですが、ほんとうに多くの方から教えていただきました。
直接の教えを受けた人を、感謝をこめて挙げてみましょう。

交流分析…小林雅美氏、田中千惠子氏
私の生き方の土台となりました。

体験学習…手塚芳晴氏、畑彩土氏
プログラム作りの基本を学びました。

セミナー構築…水野浩志氏
ビジネス感覚での、講師術とでもいうものを学びました。

チームビルディング…三宅潤一氏
研修の幅を広げることができました。

コーチング…野島美子氏
コミュニケーションの力と、ワークショップ形式のセミナーの感覚とを学びました。

生き方…榊原重朗氏
パワポスライドの表現、言語感覚、そして存在そのものとしても大きな刺激を得ました。


単発の研修、セミナーや、書物の上での教えは、挙げきれません。
また、研究会のような磨き合う場、同僚との切磋琢磨など、得た学びは、ほんとうに数限りがありません。
# by 50tempest | 2014-01-06 06:28 | 自己紹介

その1秒を削り出せ

東洋大学駅伝チームのスローガン「その1秒を削り出せ」

走っている時はひとりひとり。
個々のの能力はもちろんだけれど、
勝つチームは、皆「チーム」として機能している。

チームとてして機能するためには、
こうした熱いメッセージのもと、
上級生と下級生が、努めて話し合い、
経験共有を、日々積み重ねる。

思わぬドラマが起きるのも、
「チーム」だからこそなのだろう。
# by 50tempest | 2014-01-03 14:50 | 見て聞いて考えた

私のキャリア1 守備範囲

新年おめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
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このところ、私と同じ60歳の皆様にメンタルヘルスのお話をする機会を、連続でいただいています。
それは同時に、自分のこれまでとこれからを、考える機会にもなっています。

というわけで、ここで自分のキャリアをふりかえってみようと思います。
もしかしたら、どなたかの参考になることがあるかもしれませんね。


まずは、現在の私を棚卸して、次第に時をさかのぼっていこうと思っています。

現在の私の職業は、研修講師、コンサルタント。
気づきの研修、セミナーを提供しています。、

専門は、大きく言うと、人が元気に自律して働くサポートです。

それは、組織で人を使う側から見ると、人に関するマネジメントとなります。
マネージャーが部下の力を引き出して、組織を元気にしていることに関わるあれこれです。
チームビルディング、ファシリテーション、コーチングなど。メンタルヘルスのラインケアも含まれてきます。

自分で自分を元気にしていこうとする側から見ると、セルフマネジメントとなります。
コミュニケーション、交流分析など。メンタルヘルスのセルフケアも含まれます。

研修の色合いとしては、まず体験学習の枠組みを重視します。
一方的な講義でおしまい、とはしません。
何かやってみる、考える、引き出す、まとめる、といった構造です。

チームビルディングのアクティピティ(専門的にはプロジェクトアドベンチャー系といいます)をよく使います。
楽しみながら気づいていただくのには好適なのです。

人間理解や関係作りには、交流分析のエッセンスを使います。
現代人にもわかりやすく、本質をついた概念が多く、自分の成長にも大きな役割を果たしたと思うからです。

キャリア的な領域については、ブランドハプンスタンス(計画された偶然)の考え方を信奉しています。

いろいろやるので、「五十嵐さんは一体何が専門なのですか?」と、たずねられることがあります。

私は、自分自身がマネジメントに悩んだりする中で、興味と必要にまかせて手当たり次第に学んできたことを、今、応用性を高めてお伝えしています。
その意味では、ひとつ絶対というものを持っていないと言えるかもしれません。

しかし私は、例えて言えば、街場の内科クリニックのドクターでありたいと思っているのです。
# by 50tempest | 2014-01-01 06:25 | 自己紹介

男女がすれ違う理由 転載します

♡ 男女のすれ違う理由 ♡

男は愛しているからこそ
話して弱みを見せたくない
迷惑をかけたくない

女は愛しているからこそ
何でも聞いて欲しい
何でも話して欲しい

女は男が変わってくれることを望み
男は女がそのままでいること望む

男は考えがまとまったら話し
女は考えがまとまらないからこそ話す

会話は男にとっては情報のやりとり
女にとっては心のやりとり

女は、理由を説明してほしがる
男は、そんなことまで説明する必要はない、と思う

ほめられたい男 
愛されたい女

男「問題を解決すればいいんだろ?」
女「解決してほしいんじゃない
わかってほしいだけなの」

男は「正しく」なりたがる
女は「いい子」になりたがる

男は「女性が何も言わないのは
不満がないからだ」と思い込みがちだが 
女は「言わなくてもわかってほしい」と
思って言わないだけである

男は「本当に自分の支えを
必要としているのであれば、
彼女の方から頼んでくるべきだ」と思っている

が、女はコチラから言わなければ
何もしてくれようとしない男性側へ不満を持つ

だから・・・

すれ違う
# by 50tempest | 2013-12-04 17:09 | 見て聞いて考えた

えびのチリソースの大事件

いろいろと「不祥事」が続いて、企業トップたちが記者会見に並んで、頭を下げる場面がテレビによく流れます。

それは、ある面で企業の誠実な姿勢の表現ではありますが、その半面、企業とか、ひいては世の中について、「その程度のもの」「いけないことをしているもの」という暗示を人々に与えているような気がします。

特に子供たちに対する影響が心配なのです。


このところ、えびのチリソースが材料が違って、それは偽装だなどという騒ぎが続いていますね。
あちこちでやっていることだろうなと思っていたら、やはりそうです。

ただ、正直なところ、そんなに大騒ぎすることか?と思うのです。

産業界に生きてきた自分の感覚からは、コストの安い素材を使って、同じ味を出そうとすることなど、よくあることだし、むしろほめられることだと思います。

そんな工夫の中で、生まれてしまった事件のような気がします。
テレビ東京などでは、似たような話が社員の苦闘のドラマとして、よく出てきますが、紙一重でしょう。

消費者としての私は、実際のところ何エビが使われているかなど、関心がありませんし、食べ分ける舌も持っていません。
あまりに粗雑な材料でべらぼうな値段をつけるなら、もちろん、それはほめられたことではありませんが、しかし、そんな店は淘汰されるのが経済の論理だと思います。

記者会見で、鬼の首を取ったような調子で責める報道関係者諸氏の声には共感できませんでした。
特に今回は、「世間を騒がして」いるのはマスコミ側だなあ、と思いました。

貴店がその品名で提供するものとして、品質上どうなんですか?
りっぱなお店の看板に対して、恥じるところはないのですか?
それならわかります。

「偽装」というレッテルには、違和感がありました。
まして、「不当利益」などと言うに至っては、マスコミらしい小賢しさとしか感じられませんでした。

しかし、そのレッテルのせいで、ことが大きくなった気がします。
怖いです。


整理します。
名のある店は、その名にふさわしく、きちんとしたものを提供してほしい。
マスコミは、ことのレベルにふさわしい見識と姿勢で対応してほしい。
両者、大きな視点から見た時、世間に与える影響を思い出してほしい。
# by 50tempest | 2013-11-07 07:12 | 見て聞いて考えた

あまちゃんと交流分析

今年のブームといえば、『あまちゃん』ですね。
私も、カミさんとほぼ毎日見ました。

何と言っても宮藤官九郎の脚本。
ストーリーもさることながら、舞台劇的な、ちょっとした言葉遊びやオチのつけ方には笑わされました。

能年玲奈さんの演技もすばらしいと思いました。
朝ドラといえば、たわいもない出来事を大騒ぎする筋、ヒロインの大げさな演技というのが通り相場だと思っています。

しかし、彼女の自然な表情は、大竹しのぶの若い頃を連想するものがありました。
劇団のようなところで学んだものではないのでしょうが、天才的だと思います。


それはさておき、お話は、地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もない、パッとしない子だった天野アキちゃんが、次第に自分の力に気づいていき、地元の町おこしのリーダーになっていくという物語でした。

アキちゃんは、母の実家である北三陸にやってきて、おばあちゃんのエネルギーにすっかり感化されます。
「じぇじぇ!」とか「かっけー!」とか、地元の感嘆詞をどんどん口にするようになります。

そして、そのあたりから元気な子になっていくのですが、交流分析的に、これは理にかなっているのです。
個性も華もないパッとしない子というのは、5つある心の面(自我状態といいます)のうち、FCが低いのです。

FCが低いのは、何をするにも、エネルギーが出ない状態です。
人として本来持っているはずの、生きる力が表に現れないのです。

育つうちに、自分自身に自信が持てなかったり、傷つくことがあったりすると、そんな生き方の子になります。
おそらくアキちゃんも、ちょっとしたいじめにあったりして、そんな生き方を身につけたのでしょう。

そんなFCの低い人が、どうすればよいかというと、簡単です。
子供っぽいことをするとよいのです。
逆の言い方をすると、大人っぽくないことをするのです。

派手な服を着う、感嘆詞をひんぱんに使う。
勝手な歌を歌う、小さな子供やペットと遊ぶ。などなど。

急に性格が裏表に変わるものでもありませんが、続けているうちには必ず効果が出ます。

ですから、アキちゃんは、「じぇじぇ!」とか言っているうちに、次第にFCが高くなってきたのです。
その後いろいろと辛い目にあって落込みながらも、それでだめになることなく、強く生きられるのは、本来持っていた生きるエネルギーが出るようになったからなのです。

そして、その様子を深い所で支えてくれる、おばあちゃんやお母さんに見守られた面もあるでしょう。
FCは、関わる人の優しい心の面NPを刺激して、高めるのです。、


ですから、もし自分のことを、以前のアキちゃんのような、地味で暗くて向上心も協調性も存在感も個性も華もない、パッとしない人間だと考えている方がいたら、ぜひ「じぇじぇ!」とか「かっけー!」とか、言いまくることをお勧めします。
また、他の感嘆詞「オー」「イェイ」「ほぉー」「へぇー」「やった!」などでもかまいません。
# by 50tempest | 2013-11-03 07:44 | 日々の交流分析

ふれあいの心理学「交流分析」で心を軽くする講座

人は人のことで悩むものです。
ただ、人間関係は相互の関係ですから、落ち着いて考えると、悩みの元が実は自分の方であったりもするのです。
交流分析を知ると、自分のいろいろなことが整理できて、ストレスも減らせます。

◆期 間:平成26年1月30日~3月13日 計4回
      13時15分~14時45分

◆受講料:8,000円 (テキスト代630円は別途)

◆会 場:淑徳大学池袋サテライト・キャンパス


【講座内容】

1. 1月30日 : 「自分」は、自分が知っている以上のもの
2. 2月13日 : もっともっと活き活き人生にする
3. 2月27日 : あたたかいコミュニケーションの方法
4. 3月13日 : 自分の人生、まるごと好きになる


【ポイント】

1960年代にアメリカで生まれた「交流分析」は、日常的な言葉を使い、図式で考える、わかりやすい心理学です。現代を生きる私たちにも、とても役に立ちます。人は人間関係の中で生きていますから、その中で喜びも悩みもします。そうした交流のしかたを手がかりに人間を見ていく心理学です。

◎人は誰でも喜びに生きるために生まれてきた。
◎人は考える力を持っている。自分の生き方を自分で決める力もある。
――それが、交流分析の哲学です。つまり、交流分析が目指すのは、自律の生き方なのです。

もともとはメンタル不調を支援するために生まれたものですが、こうした考え方は一般の方にも役立つので、企業研修などに広く応用されています。

楽しく知って、楽しく話して、心を軽くしましょう。
# by 50tempest | 2013-10-28 21:41 | 日々の交流分析