郷里のお墓が傷んできていたので、作り変えました。
お墓って何なのだろう、と思いました。
そこに霊魂のようなものがこもっているとは、私には思えません。
逝った家族を思い出す場だと思います。
また、先祖にこんな人がいたのだな、と思いをはせる場なのだと思います。
人は二度死ぬといいます。
最初は生物としての死。次は、忘れられた時。
忘れることも必要なことです。
失った悲しみを、いつまでも胸にしまいこんでいては、先に進めなかったりしますから。
その心の中の思いを、外の形あるものに託し、それによりいったんけりをつけるのが、お墓の役割なのかなと思いました。
その意味では、故人のことをふだんは忘れていてもいいのです。
いずれ、同時代に生きた者がいなくなれば、その人についての記憶も消えるでしょう。
多少のエピソードが残るだけ。
それもまたよしです。そういうものなのです。
生まれて、生きて、死んで、忘れられる、そんな営みを、人はずっと繰り返してきたのですから。
詩人の茨木のり子さんが生前に書いて、日付と死因を補記して投函するよう家族に頼んでいたという手紙を知りました。
家族の場合とは少し意味が違うかもしれませんが、人が去っていく始末として、いさぎよさを感じました。
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このたび私'06年2月17日クモ膜下出血にて
この世におさらばすることになりました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。
この家も当分の間、無人となりますゆえ、弔慰の品は
お花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。
「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬
思い出して下さればそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかな
おつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸に
しまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かに
して下さいましたことか…。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に
代えさせて頂きます。
ありがとうございました。
二〇〇六年三月吉日