ゆめ芝居 それがしの申しますことひと通り・・・
2020-10-31T16:52:37+09:00
50TEMPEST
1953年生まれ男性です それがしの申しますことひと通り、お聞きなされてくださりませ
Excite Blog
不安の時代を充実して生きぬく知恵~ビジネス人のための「バーン心理学」入門
http://igarashi.exblog.jp/240659896/
2020-10-31T16:51:00+09:00
2020-10-31T16:52:37+09:00
2020-10-31T16:51:25+09:00
50TEMPEST
ごあいさつ
はじめに~コロナ時代をどう生きぬけばよいのか心のキャリアコンサルタント 五十嵐信博本書は、ビジネスパーソンの皆さん、とりわけ人生の後半戦(セカンドハーフ)を戦っている40歳以上の皆さんのために書きました。新型コロナウイルス(COVID-19)のために、ビジネス現場では、さまざまな変化が起こりました。今後も、その変化は加速していくと思われます。そんな中で、とりわけビジネス経験を積んできた皆さんは、世の中をリードしていかなくてはなりませんね。経験を積んだ皆さんの活躍は、職場にあっては職場の言動力、若い人たちのモデルとなりますし、広く社会に目を拡げれば、経済を回していくエネルギーとなるのです。そして個人領域に目を転じれば、人生経験を活かして家族をささえる責任があります。また、自分自身の人生を輝くものにしていきたいという願望も当然あることでしょう。大きな変化を乗り越えていくためには、私たちは働き方を、ひいては自分自身や、生き方を変えなくてはいけないでしょう。「この世に生き残るのは、最も強いものでも、最も頭のいいものでもなくて、変われるもの」という言葉は、ダーウィンが本当に言ったかどうかは別にしても、名言だと思います。どう変わればよいのか。その大きさとともに、方向性が問われます。若い時ならば、無駄走りをたくさんしても、模索の中から何かをつかむことの意味はありますが、すでに後半戦を戦っている皆さんには、努力するベクトルの方向づけに手がかりがあれば、それに越したことはないはずです。私は、企業のマネジャーを長く務めた後、独立し、キャリアコンサルタントになりました。キャリアコンサルタントは、仕事にはどう取り組んでいけばよいのかを、皆さんとともに考えるのが役割です。ただそれは、いかに生きていけばよいのかと表裏です。なぜなら、仕事と、仕事以外の人生とは一体だからです。私は、多くの企業様で、キャリアデザイン研修などを通して、人生視点での自分らしい生き方や、その構築への目のつけ所を提案してきました。そんな経験を通して、皆さんにおすすめしたいのが、アメリカの心理セラピスト、エリック・バーンの創始した心理理論であるTA(Transactional Analysis)です。本書でお伝えしたいのは、バーンのTAの、現代のビジネス生活への応用です。TAは、1960年代、アメリカの社会が大きく変わろうとする時代に生まれた理論です。もともと、変化の中で人は心をどう持ち、どう考えて生きればよいのか、ヒントを提供してくれる、いわば変化の中で人を救う理論と言えます。ですから、今日の私たちが、新型コロナウイルスがもたらした大きな変化やストレスを乗り越えて生きる上でも、今何が起きているのか、何が大事なのかを見て取るためのフレームを、TAは提供してくれます。これからの自分の人生をどう構築しようかとお考えのあなたには、きっと役に立つことでしょう。なお、本書では「バーン心理学」という言い方をしようと思います。TAは世界中の心理臨床の場で役立てられ、日本でも「交流分析」として心理臨床を行う本流があります。一方、それを取り囲む形で、バーンの理論やコンセプトを応用的に活用している人たちもいます。こうした本流、支流を合わせた形で、バーンに敬意を表して、敢えて「バーン心理学」と呼びます。バーンは、精神分析をふまえて、それを乗り越えた、わかりやすく役立つ理論を作りました。本書は、そうした革新性にならいたいと思っています。TAにインスパイアされて、あらたなモデル化を試みたいと思います。また、これまでの交流分析体系から、少しふみこんだ意訳もしています。一般の方によりなじみやすいようにという意図です。経験のない変化の時代を、あなたが、日々さらに自分らしく充実して生きるために、本書が手がかりとなればうれしく思います。不安の時代を充実して生きぬく知恵 https://bookissue.biz/book/nobuhiro-igarashi.html
]]>
前立腺がん手術日記【退院後編】
http://igarashi.exblog.jp/239236097/
2019-04-26T15:56:00+09:00
2019-04-26T16:06:48+09:00
2019-04-26T15:56:31+09:00
50TEMPEST
見て聞いて考えた
前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。
【退院後編】
3月19日 火曜 術後12日
手術前にどうしても入れざるを得なかったアポイントに出かける。
薄型のパンツ型と三角型パッドを併用。出先でパッドを交換しながら対応。1時間半ぐらいは対応できた。
外からはわからない。こちらは、パッドがどれだけもってくれるか、頭の一部で不安が走る。もし、持ちきれなくなっても、パンツがあるので、漏れ出すことはないと確認できた。
夜は念のため、パンツ型と尿とりパッド(巻き型)を併用。
目覚めて自力排尿する形が、うまくなってきた。
風呂は、先に誰かにはいってもらい、浴室をあたためてから、シャワーを使う。
3月20日 水曜 術後13日
終日、退院お知らせメールなどを描いたりしてすごす。
パッド類をいろいろ試している。
夜使っているパンツ型には漏れ出していないようにみえる。
ブリーフと三角型パッドで後ろ漏れあり。
ここで三角型パッドといっているものは前あて式である。粘着式になっていて、ボクサー型のパンツなど、ぴったりした下着に貼りつつ、中で漏れてくる尿を吸収する。これを使えば、外から見てかさばらないし、足の動きにもじゃまにならない。尿もれパッドというような商品名で、何cc持てるのか、いろいろ種類がある。
病院の売店にあって、入院中から使ってきたものは筒を巻く型である。巻くと、その部分がふくらんでしまう。巻くだけでなく、いわゆる「おしめ」のように前にあてることもできるが、それだと足の付根がごわつくので、外歩きには適さない。尿とりという商品名になっている。呼称の違いが、スペックの違いであるのかもしれない。
どちらにしても、保水力だけでなく、匂いも出さないのはすばらしい。昔は布のおしめだったろうから、どれだけ楽かしれない。
3月21日 木曜 術後2週間
前夜に替えた紙オムツで、翌日1日過ごしてみる。何の問題もなし。
尿取りパッドの消費はばかにならない。64個パックが心強い。
また、ゴミ出しの際、水分を含んでずっしりと思いゴミ袋を出すことになる。
排尿コントロールに役立つ括約筋の体操を、ネットで見つけた。
3月22日 金曜 術後15日
アフラックの保険の請求書類を書く。
生検の時は入院給付だけだったが、今回手術給付をもらうには、病院に書いてもらう紙が必要とわかった。
病院の支払いは個室の差額ベッド代合わせて23万円弱。これは高額療養制度のおかげ。
アフラックからは、手術給付200000円と、入院給付が5000円/日で、13日分出るはずだから、保険金のほうが高いことになる。
妻に、アフラックの紙を病院に持っていってもらう。
3月24日 日曜 術後17日
排便の時、無理に力むな、口を開けて力めと言われている。
それは前立腺をはがして、後を直腸などに縫いつけてある、硬い便を出そうと力むと、そこがちぎれてしまう危険があるからだ。
ずっと大丈夫だったが、この日はなかなか出なかった。
便が大きいせいか、出そうになるが、ちょっと痛みを感じると引っ込んでしまう。
かなわないので、浣腸を買ってきてもらった。立派なバナナが出た。安心。
3月25日 月曜 術後18日
血尿がだいぶなくなった。
尿意を感じて排尿に行く、ちゃんと出るという形が増えた。
入院中、後半から普通に食べられていたが、動かないせいか、退院時の体重は61キロ台。その後次第に増えて、63キロ台になった。
今年は外の花粉がひどいので、ほとんど外にも出ていない。
少しずつ、散歩程度から体を動かし始めたい。
4月5日 金曜 術後4週間
夜はしっかり排尿できるようにはなった。ただしパッドにも出ている。
昼は、パッドの種類によって、尿意はあってトイレに行っても、そちらに出てしまっていることがある。
4月6日 土曜 術後30日
手術の前ギリギリに決まった仕事の本番で水戸に遠出。
薄型パンツと前あてタイプのパット250CC用とで乗り切る。外出の際は、前あてパッドは頻繁にチェックして取替えなければならない。おおむね2時間が目安。
4月7日 日曜 術後31日(1か月)
巻き型より、前あて型のほうが、尿意を感じやすいように思う。巻き肩は、高性能すぎるせいか、昼の尿意がわかりにくい。
あてるタイプに切り替えていこうと思う。漏れの危険はあるが、昼も、それなりにも自力排尿できるようになってきた。
4月8日 月曜 術後32日
最初の定期受診。採血と尿検査をする。
PSA値は4/1000。尿にうみなどはなく、大変順調とのこと。
4月15日 月曜 術後39日
別件で病院に定期受診。
ある程度、排尿コントロールできるようになってきていたので、普通のブリーフに前あてパットで出かけた。
そろそろ呼ばれるかなというタイミングと重なって、トイレに行くのが遅くなり、目立ちはしないが、パッドからズボンまで漏れ出した。まだやばい。
4月23日 火曜 術後47日
朝から終日の仕事。
パンツ型と前あてパッド250CCで乗り切る。
ずっと立って動いての中で、時々のどを潤すために水を飲む。休憩時間のたびパッドをチェックした。緊張のせいか、汗に回っいるせいか、シャーッという排尿はなかった。パッドは結局3回交換。
4月25日 木曜 術後49日
夜は1~2回排尿に起きるが、ほとんどバッドが濡れずにすごせるようになった。
昼もリラックスしていれば、サインに気づく。ただ、手術前にくらべて、周期が短いので注意が必要。
パッド類を試してみた結果、以下のとおり
◎サルバ 尿とりパッド スーパー 男性用(テープタイプ用 )
入院中から使っているもので巻き型。 68枚入があってコスパがいい。
◎ライフリー さわやかパッド 男性用 250cc 一気に出る時も安心用 26cm 18枚 【ドッとモレも安心】
使っているときは薄くて、使う前の持って歩く状態も小型でよい。
◎ライフリー パンツタイプ すっきりスタイルパンツ 男性用 2回吸収 【超うす型】【前あき機能つき】【下着のようなはき心地】
私の場合はパッドも使っているが、本来は単独の紙おむつなので、1日出歩くにも安心。
◎リリーフ まるで下着1回分 男性用 ブルーローライズ
ビキニバンツみたいな浅い形の紙おむつ。これにパッドで、たいていの外出は可能。
ライフリーのパンツほどの力はないが、おむつ感が少ない。
△ポイズ メンズパッド 薄型ワイド 安心の多量用300cc 15.5×25cm 12枚 【男性用 軽い尿モレ対策】
300CCという性能に惹かれて試したが、その分厚い。
水を吸うとさらに膨れて重くなるのとで、最善とはいかなかった。
△ライフリー テープ用尿とりパッド あんしん尿とりパッドスーパー 男性用 3回吸収 39枚
サルバよりも吸収量が多いので買ってみた。
持ち歩きにかさばるので、サルバのコンパクトさとコスパのほうに軍配。
]]>
前立腺がん手術日記【手術編 その2】
http://igarashi.exblog.jp/239236085/
2019-04-26T15:48:00+09:00
2019-04-26T16:05:02+09:00
2019-04-26T15:48:19+09:00
50TEMPEST
見て聞いて考えた
前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。
【手術編 その2】
3月14日 木曜 術後7日
朝、先生が来て抜糸。腹の傷のホチキス針を半分(ひとつ飛ばし)抜き、カテーテルも抜いてくれる。
しばらくの間、出た尿の量を計り、記録するよう看護師から説明を受ける。
気づかず失禁が始まる。最初は、盛大に。
子どもに戻ったと思って、時間を決めて、シーという感じでやってもみた。
タラタラぐらいは出ないこともないが、コントロール部分は今ダメになっているらしい。
しばらくは、こんなものらしい。
残尿なく、出ることが今は大事、とのこと。
尿取りパッドを大きいロットで買ってもらった。これで安心、
白十字の尿取りパッドはかなりの保水力を持っているが、こっちは出ていることがわからない。
だから、いっぱいになっている時、気をつけないと、ちょっとしたはずみで下着のほうにこぼしてしまう。
普通のブリーフで、尿取りパッドを使っていたが、この日は夜中を含め、2回汚す。何をか言わん。
少し血尿なので、放っておくわけにもいかない。その場で洗って、干しておく。個室なので、そのあたりは何とでもなる。
3月15日 金曜 術後8日
夜は、おおむね2時間おきでパッドを交換した。
膀胱が引っ張られた状態にあり、受け止めてかかえる力がないのだろうか。
また、膀胱の状態を感知してがまんしたりする神経も、働いていないのだろう。
かかえた水をコントロールして放していくという、なくなった機能を、あらためて体が作っていくとしたら、すいすいとはいかないだろう。
焦っても仕方ないので、今はできることをするしかない。
看護師さんの話では、時間でトイレに行くというよりは、尿意を感じるようにしていくのがいいとのこと。
早ければ、明日、土曜日午後には退院できそうな気配。
早く退院しなければならないという事情もないので、当初予定のとおり月曜でよいと看護師さんに伝えた。
3月16日 土曜 術後9日
前夜は試しにトレーニングパンツ(つまりは、紙おむつ)を使ってみた。
看護師さんに、熟睡のためにはその手があると教えてもらった。
性能がわからなかったせいか、もうひとつ長い熟睡はできなかったが、結果としては優れものだった。
早朝、尿意に耳を澄ますようにして、トイレに行くと、けっこうまとまった量が尿瓶に取れた。回復への感触めいたものだった。
パッドなどをうまく使って仕事をしていくイメージが少しずつできてきた。
回診時の先生の話
今、新しい膀胱の形に慣れてきているところ。
胃を切除して少ししか食べられない人が、だんだん普通に食べられるようになるのと同じ。
2週間ぐらいで、漏れるのと、自分の意志でするのが、トントンぐらいになるのが平均なので、焦らないこと。
ピンの残りは明日抜く予定。残したまま退院して、後日外来で抜くケースもよくある。アメリカでは退院後に外来で抜くのが普通。
ピンを抜いてから縫ったところがはじけてしまうと大ごとになる。
3月17日 日曜 術後10日
夜中、血尿が少し多めで気になった。
朝、看護師に見てもらうと、このぐらいは問題なしとのこと。
先生が残りのピンを抜いてくれる。
血尿が続いているのは問題ないかと聞いてみた。
先生の話
問題なし。血尿はこれからも、時に何ヵ月も続くでしょう。
尿にはかさぶたを溶かす成分があり、ブラジルなどでは、飲尿で、その働きを利用しようという療法もある。
空気中では簡単にかさぶたができて治るものが、常に尿が通る部分では、キズが簡単には治らない。泌尿器科の宿命です。
明日月曜の3時すぎ退院と決定。
アマゾンで、尿取りパッドやパンツ、あれこれ見比べていくつか試しに手配する。
3月18日 月曜 術後11日
娘も来てくれて、退院。
忘れ物のないようにとか言いながら、しっかりタオルを忘れてくる。
これまで、筒先をくるむ形のパッドを使っていたが、試しに三角型の前あて式のパッドを普通のブリーフと合わせて使ってみたが、少し後ろ漏れしてしまった。
パンツ型と尿取りパッドを併用して就寝。
安心して、熟睡でき、かつ尿意で目覚めることもできた。
このパンツはたまたまあったもので、義母か義父が使っていた残りだが、さすがに高性能。
退院時に先生からもらった指導書によると、しばらくは運動厳禁とのこと。
文面から察するに、ゴルフなどやりたがる人がいるらしい感じの文面。
アルコールは、尿漏れコントロールが完全にできるようになるまで禁酒。
ホルモン剤治療の時からやめているので、別に欲しいとは思わない。
再来月まで、ということは5月まで入浴は不可。シャワーのみ。
季節的にまだ寒いので、ちょっと不便。
しかし3月だから、ましといえば、ましか。
]]>
前立腺がん手術日記【手術編 その1】
http://igarashi.exblog.jp/239209504/
2019-04-09T10:59:00+09:00
2019-04-26T15:40:19+09:00
2019-04-09T10:59:26+09:00
50TEMPEST
見て聞いて考えた
前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。
【手術編 その1】
2019年2月15日 金曜
術前検査。
採尿、採血、レントゲンをこなす。
採血によるPSA値は、この時コンマの値になっていたと後で聞く。
3月6日 水曜
タクシーでA病院へ。
入院の手続きをする。6階個室601である。
大まかな流れの説明を受ける。
こうして、こうなっていくという流れの表を見て、非常にシステム的なものを感じた。
普通の人がこの手順をふんで、一定の時間がたてば、治っていくということなのだろう。
夕方までにシャワーを使う。
看護師さんが、へそのゴマの掃除をしてくれる。後で別の看護師さんがチェックに来た。それだけ大事なことなのだろう。
思い出したのは、嘘か本当か、盲腸の手術ではあらかじめ下の毛を剃るのだと聞いたことがある。生検の時も今回も、そんなことはしなかった。
仕事のできそうな手術室看護師からも段取りの説明あり。
一応普通には眠った。
3月7日 木曜
朝から絶食。
朝、先生がのぞいてくれて、今いつものチームが集まってくれている、昼にしっかり休憩をとってからかかるので、安心していてくれとの話あり。
手術は13時30分から。所在なく午前を過ごす。浣腸などあり。
妻と娘が到着。
気持ちは落ち着いているつもりだが、妻から後に聞いたところでは、顔色が青ざめていたらしい。
時間になり、手術衣に着替えていったんハイケア室(ナースセンター隣室)へ。
さらに手術室へ。
名前、生年月日、手術の部位を言わされる。
ストレッチャーから隣の狭い手術台に移る。
麻酔科医の女医が声をかけてきて、まず背中に麻酔(硬膜外麻酔)開始。
その後マスクを当てられ、その先は覚えてない。
名前を呼ばれて気づいた。
「今、3時すぎです、早く済みましたよ」「59分でした」と言われたが、頭が回転しない。
腹を開けて、閉じるのに1時間と聞いていたから、正味の摘出手術に1時間かかっていないという、手際のよさを言ったのだろう(後で思うに)。
一般的には3時間とか、かかるらしい。先生の腕自慢。
ハイケア室へ戻る。
その時、妻たちは取ったものを見せられたようだ。
きれいに取れたから、写メをとるよう、さかんに勧められたとのこと。
後でその写真を見せてもらうと、10センチ強ぐらいの赤いもので、どこががんだかはわからない。
足につけた空気マッサージ機(血栓予防)がずっともんでくれるのが、気持ちいい
自分でも呼吸の安定を保って、マインドフルネスや数息観を試みる。痛みはない。
昔、父の腎臓がん手術の後、一晩ついたのを思い出した。親父は痛み止めをあまりしてもらえなかったか、痛い、痛いと言っていたなぁと。30年も前の話。
断続的にはそこそこ眠った
3月8日 金曜 術後1日
酸素のせいか、唇が渇いてかなわない。
朝、先生から氷をなめていいとお許しが出た。
身体を拭いてもらい、レントゲンを2枚。
肺炎を起こしていないか、などを見るらしい。
昼から食事(流動食)が出た。
食べたほうがいいのだろうと思って、できるだけ食べた。
手術衣から着替えて、車椅子で自室に戻る。
腹筋を使うなと言われているので、動きがソロリソロリになる。
腹の傷は、へその下、丹田あたりをタテに10センチほど。
寝起きや、咳の時に痛い。
夜から胃が不調。重く張った感じで、気分が悪い。
時々、ウィッとけいれんのような状態になるのが、腹の傷にも響く。
夜の食事は、ほんの一口だけ。
夜中、胃の気分の悪さで眠れず。
吐き気が出ることもあると聞いていたのだが、これも吐き気のうちかもと考えて、吐き気止めを点滴に入れてもらった。
3月9日 土曜 術後2日
朝からも、終日胃の不調が続いた。
思えば、きのうがんばりすぎたのだろう。
胃薬を出してもらう。
食事は無理にがまんして食べようとせず、口から食べることを体に思い出させればいい、一口でも食えたらよしと考えた。残った分ではなく、食べた方の分を見るように頭を切り替えた。
A食、B食、ふたつから翌々日のメニューを選べるようになっている。
午前中に聞きに来てくれるのだが、それ自体がうっとうしい。
「おまかせします」で済ませた。
痛み止めも入れてもらった。
自分は、切ったのだからこんなものだろうと思って、痛いとは言わなかったのだが、看護師さんからは、私は我慢する人という見方をされていたらしい。
胃の調子は、夜にはいくらかましになったが、調子が悪いと眠るにも難儀。
パイプ枕のパイプが痛くて、ほとんど眠れず。
よく朝、my枕を持ってきてほしいと妻にメール。
病院が近いので便利。
時間つぶしに、ラジオ、MP3プレイヤーなど持ってきてあるので、順に試す。
本はまだ読む気にならない。
何もしていないと、夜などはあれこれと考える。アイデアも浮かぶ。
「せん妄」が出るかもしれないと聞かされていた。つまり、あらぬことを言い出したりすることがあるらしい。
結果的に、それはなし。ずっと気は確かだった。
しゃべりがうまく口が回らない、声もよく出ない。
無意識にあちこちが緊張しているのだろう。
看護師さんと話していて、スポーツは何を見るかという話から、なんとその方もラグビー好きで、競技場まで見に行くぐらいの人とわかった。
ちょっと盛り上がって、元気が出た。
3月10日 日曜 術後3日
この日からけっこう食べられるようになった。
一皿全部とか、全体の半分とか、気分のままに、うまくないものは遠慮なく残す。
先生が、「少しずつでも自分で食べられればいいです。このぐらいの手術だと、今まではICUに3日いるのが相場ですから」と言ってくれたのが、頭の整理になっている。
つまり、けっこうなレベルの手術であり、思うようにいかないことがあっても、もう自室に戻って動いてる自分はましなほうなのだと考えられる。
食べられると、気分も明るくなる。
体力が回復するにつれ、「食べられるが、おいしくはない」という程度のメニューでも食べられるようになる。
食べるとか、眠るとかいうことにも、それなりの体力はいるものだと感じた。
腹のキズは痛い。動かなければいいのだが、寝起きはどうしても動くので痛む。
食事にしても痛みにしても、人より特別に回復が早くなるわけもないし、といって、人並みでない理由もない。
手術直後は、なぜか顎関節がスムーズでなかった。声も満足に出なかったが、この日あたりから、コミュニケーションが楽に。
軽い下剤(塩化マグネシウム)の投薬開始。
3月11日 月曜 術後4日
枕を替えたおかげで、前夜は長く眠れた。
食事は、苦もなく食べられるようになった。
ご飯は少なめにしてもらった。朝から丼みたいなご飯が出るのだが、それを見るだけで食欲が失せる。皆こんなに食べるのか?
毎日来てくれる妻にメールし、何か飯のお供になるものとヨーグルト、それからおやつにカステラか何かとリクエスト。
海苔か佃煮をイメージしていたのだが、こちらの気を読んで、好物の葉唐辛子の佃煮を持ってきてくれる。
この日で点滴を止めることになって、シャワーも解禁。針は残して点滴を外した。
頭を洗い、さっぱりした。
腹の痛みは一皮ずつ楽に。
3月12日 火曜 術後5日
前夜は、通して4~5時間眠れた。
今日の目標は便通開始。
朝から2度ほど、トイレに通う。
ベッドから立って、まわりを見回す余裕があった。
前立腺を摘出する時、直腸などともつながっているのをはがす。その後を縫いつなげてあり、固い便を出そうと力むと、そこがちぎれてしまうから、力んではいけないとの先生からの指示。
息を止めて力まないこと。多少は力まざるを得ないが、口をあけてするとよいと看護師からのアドバイス。
昼、やっと便通あり。
結局、:差し込み便器は使わずに済んだ。
寝るまでに3回排便あり。排便の動きに連動して、血尿がでる。
仕事関係の電話やメールがはいる。今回のことは伝えてないので少々うっとうしいが、ありがたいこと。
トイレに立つ時、腹の痛みはたいしたことなくなってきた。
ベッドの電動のおかげ。自力ではまだしんどいが。
太ももが細くなったような気がする。
たかだか数日動かずにいるだけで、ひどいものだ。
3月13日 水曜 術後6日
6時半の検温まで数時間は通して眠った。
こんな考えが浮かんだ。
煎じつめると、動物は上から入れて下から出す管であるのだが、付随する細かいパーツが付き、オートマチックに調整する機能も付いた。
人間は、口(上)からの入れ方を選択する脳の機能まで獲得した。
それが、出口あたりの小さいパーツのひとつでも取ったとなると、けっこうおおごとになる。
そのパーツが果たしている役割を周辺がカバーするようになるのだが、それにはやはり、それなりの時間がかる。
それだけではない。
手術で取り除くために麻酔するわけだが、半分死んだ状態にするわけだから、身体全体がもとのようにオートマチックに動く状態にまで目覚めさせるのは、簡単ではないということだろう。
入院で日数がかかるのは、案外その部分なのかもしれない。
切ったところがくっついていくとか、働きが戻るとかに要する、平均的な長さというものは、おのずと決まってくるのだろう。
妻と、仕事に戻ってからの尿取りパッドについて話した。
試しにアマゾンでいくつか注文してみる。
膀胱カテーテルから造影剤の食塩水を入れて撮影した。
前立腺を取り、膀胱と尿道を中抜きにつないだ部分がくっついているかのチェック。
問題ないとのことで、早ければ明日、カテーテルが抜ける。
このように、ひとつ手順を踏んで確認しつつ、回復のステップを一段上げていくプログラムなのだろう。まことにロジカルである。
]]>
前立腺がん手術日記【検査編】
http://igarashi.exblog.jp/239197840/
2019-04-01T18:39:00+09:00
2019-04-26T15:44:16+09:00
2019-04-01T18:39:46+09:00
50TEMPEST
見て聞いて考えた
前立腺がんで前立腺の全摘をしました。
自分自身の心覚えという意味もありますが、似たような境遇にあり、これから方針決めなどという方にも何か参考になることもあるかと思い、記録しておきます。
【検査編】
2018年8月、月1回通院している泌尿器科クリニックから、PSA値が続けて高い(10以上)ので、前立腺がんの可能性がある、生検をして詳しく調べたほうがいいと思うと言われた。
もともと人並みには前立腺の肥大傾向があり、抑える薬を処方してもらっていた。その経過の中で、定期的に血液検査もしてきた。
それまでは、時々高めになり、また下がり、を繰り返してきていた。
生検をやる気なら紹介状を書くという。短くても2泊3日、最も手っ取り早くて、足の便のいいのは千葉駅前のA病院であるとのことだった。
いったん帰宅して妻と相談すると、やったほうがいいんじゃないと言ってくれるので、ふん切りがつく。
翌9月に紹介状を書いてもらい、A病院を受診した。
8月29日 水曜
月曜と水曜の午前のみが外来診療である。8時半から9時半まで(だけ)が受付というのに、たくさん患者が待っている。2時間近く待たされる。
その日は採尿、採血など、いくつかの検査のみ。
MRIでも調べるために、そのスケジュールの空き枠を取る。かなりいっぱいの状態で、翌月になる。
9月25日 火曜
MRIの検査のみ。
9月26日 水曜
MRIの結果、はっきりというわけではないが、怪しいので生検をやったほうがいいだろうということになった。
PSAはかなり有力な指標だそうだ。
東京では低めの数値でも、がんと見込んで検査を進めていく、しかし他の県では、前立腺がんは進行が遅いので、ある程度になるまで放っておくのだという。
そのあたりは、泌尿器科医が多いか少ないかの違いだそうだ。
とはいえ、私のように10を超えていると、かなりの確率でがんが見込まれるという。
検査日程等の話を詰めるのに、あらためて家族とともに来るように言われた。
9月28日 金曜
金曜日は予約診察日。深い話の必要な患者だけが来る。妻と受診。
待合室で見かけた何組かの方たちも、自分と同じような境遇なのだろう。深刻そうな顔つきで話し合っている人もいたが、こちらは前向きに見つけ、積極的に対応をとろうとしているせいか、気持ちの落ち込みはない。
前立腺生検の内容などを説明され、入院の手続きをする。
ここの先生はすごい数の検査をこなしてきていて、麻酔も自分でやる。麻酔をしないでやる病院もあるが、痛くしないから安心しなさい、とのことだった。
可能な限り早いほうがいいので、10月末に入院と決まり、せっかくならと個室を頼んだ。
10月31日 水曜
入院。手術日は木曜。
看護師からもろもろ説明あり。さらに手術室看護師からも詳しい説明あり。
11月1日 木曜
浣腸などして待機。
手術室に運ばれ、脊椎から局所麻酔。
年齢のわりに背筋がある、スポーツでもやっているのかと聞かれた。
肛門の前の方に針を10本ほど、順に打ち込んでいく。
針を打ちながら、「感触が、がんらしくないですね、ま、詳しく調べないとわかりませんが」などと言ってくれるので、そうなればうれしいことだがと、なにぶんかは楽観的になる。
部屋に戻ったが、下半身は棒のようで自分の体のようではない。動くことができない。
かなり時間がたってから、少しずつ動くようになってきた。
痛み止めは積極的に使ってくれるので、痛くはないが、ベッドが固く、枕も合わないので、寝苦しい。
時間つぶしに本でも読めるかなと想い、キンドルを持ってきたが、とうていそんな気にはならない。
何となくテレビの音を聞く。
11月2日 金曜
退院。結果は月末。
受診予定日の前に原因不明の肺炎になり、結果を聞きに行けず。
かわりに妻に行ってもらったが、教えてはもらえなかった。
考えればもっともで、深刻な病状の場合もあり得るし、相続等にもからむかもしれないものを、妻とはいえ簡単に教えてくれるわけはない。
12月10日 月曜
やっと元気を取り戻したので、結果を聞きに行く。
手術室の中での話にちょっと期待したが、残念ながら、2か所からがんが見つかり、ステージⅢとのこと。
特に1か所は先の方なので、手術としては取りにくい場所だという。
前立腺がんは骨に転移しやすいとのことで、転移がないか、あらためて次の検査の指示あり。
レントゲン、心電図、呼吸器内科の診断などを受ける。
この時点で、「もし手術するならいつ」になるかを聞くとよかったが、頭が回らなかった。
わかった時点で、すぐ手術の手配が始まるものと、何となく思い込んでいたので、翌月に入っていた仕事を、事情を話してキャンセルした。
実際には、そんなに簡単に進むものではなく、そこまでする必要はなかったと後でわかる。
12月25日 火曜
骨への転移を調べる。造影剤を入れてのCT、骨シンチグラフィ撮影。
12月28日 金曜
また家族同道でとのことで、妻と受診。
骨への転移はなさそうなので、前立腺を取れば完治の見込みとのこと。
治療のし方について、いろいろ説明を受ける。
開腹手術、ダヴィンチ(ロボット支援)手術、ホルモン治療、放射線治療などがある。言ってしまえば、当たり前だが一長一短。
今後の再発の可能性などを考えると、手術で取ってしまうほうがよいだろうとのこと。
先生は、開腹の症例が豊富、2000人近くやってきているそうだ。
こちらとしても、後顧の憂いなく取ってしまうのがいいだろうと納得して、開腹手術を選択した。
ついでに、手術の要領を動画にしたものも見せられた。
NHKの『プロフェッショナル』などで、名人の手術の様子を一緒に見たりしているので、妻とふたり、動揺もせず「へーえ」という感じ。
しかし、これは確かに安心につながる。
実は、その後、開腹せずに超音波でがんを焼き切る方法をテレビ番組で知った。また、元巨人の角氏が前立腺がんをやったのは知っていたが、彼の場合はトモセラピーなる方法だったそうだ。
これらの方式が長期的に見てどうなのか、私に向いているかなどはわからない。
私の場合は、前立腺自体が肥大してきていたことでもあるから、自分の選択としては、そっくり取ってしまうことでよい。
しかし、実際開腹でやってみての感想としては、腹を切ることのダメージや、尿漏れの副作用は小さくはない。
超音波などの新しい方式は、局所的に焼き切ることができるので尿漏れなどの影響が出ないようだ。かなり魅力だとは思う。また、だんだんそっちが主流になってきそうにも思う。
また、超音波にしても、ダヴィンチにしても、新しい方式でやる場合は、経験の豊かな医者がやってくれるかどうか、当たりはずれがあるかもしれない。
何がベストか、調べて腹をくくるしかない。
その日から、まずホルモン剤治療をやることになった。
肝臓に負担をかけるので、アルコールは禁止と言われる。
酒は、たいした量ではないが、毎日晩酌に飲んでいたので、ちょっと寂しい。
ネットで買った日本酒が数本手つかずにあったが、これは妻の料理酒となった。
夕食が早く終わってしまうこと、あきれるほどである。
後日、知人との新年会で「医者から薬の関係で禁酒を言い渡されましてね」なんて言ったら、逆に深刻そうに心配された。
また、手術時の呼吸の力にも影響があるとのことで、禁煙も。
もとからタバコは吸わないので、そちらは関係なし。
手術は3月初めと決定した。
]]>
転居しました
http://igarashi.exblog.jp/20394134/
2014-11-18T10:19:00+09:00
2014-11-18T10:21:56+09:00
2014-11-18T10:19:46+09:00
50TEMPEST
ごあいさつ
下記に転居しました。
よろしければ、そちらにおいでください。
心に届けコミュニケーション! こちら五十嵐人材育成ラボ
エキサイトは、ブログを書き始めるご縁があり、書き続けたものもたまっていますので、このままおいておきます。
また、ホームページのほうにも、お立ち寄りいただけましたら、とてもうれしいです。
★ホームページは こちら
ありがとうございました。
]]>
私のキャリア18 マイ記念碑を作れ
http://igarashi.exblog.jp/20069515/
2014-09-08T07:01:00+09:00
2014-08-31T18:18:46+09:00
2014-08-06T15:02:15+09:00
50TEMPEST
自己紹介
もうひとつは、「記念碑」という発想です。
これば技術の会社にいたから生まれた発想かもしれません。
工事技術者がした仕事は、その人の記念碑になりますね。
それは世にたくさんあるうちのひとつでしかないし、一般に知られているものでもありません。
しかし、「これはお父さんが作った建物だ」と子供に言えたら、それは誇らしいものです。
皆、そんな誇りを抱いて仕事をしていると思います。
であれば、自分も「マイ記念碑」を作ればいいのだ、と思いつきました。
あれは俺が残した記念碑だと自分に誇れば、それでいい。
そんな目で、それまでしたことを思い出してみると、けっこうたくさんありました。
では、これからもどんどんマイ記念碑を作ってやろうと決心しました。
形に残る私の最大の記念碑は、つくばの研究所です。
そこに付属する社員寮もそうです。
私らしさという点では、本社ビルの掲示コーナーもそうです。
社内通達などが貼り出されていただけのうす暗い一角を、親しい広告代理店に相談して、イベント会場のような明るいポスターコーナーに一変させました。
人事時代は、海外勤務規程をはじめとして、新しい規定を作り、またそれまでの規程を改定しました。
関連して、社員が書く書式類も、体裁をそろえて、書きやすいものにしました。
そんなことを続けているうちに、記念碑は増えてきます。
それに比例して、自信もついてきます。
要は、自分の記念碑と思うと、めんどうな仕事もやる気になるということなのです。
自分事に引き寄せることの大事さをあらためて感じます。
誰が認めるものでなくてもよい。
自分の生み出したものが、会社のある時期を彩ってくれたとしたら、それは納得の仕事と言えるのではありませんか。
]]>
私のキャリア17 ソリティアモデルで専門性をつけろ
http://igarashi.exblog.jp/20069513/
2014-09-01T07:00:00+09:00
2014-08-06T15:01:12+09:00
2014-08-06T15:01:12+09:00
50TEMPEST
自己紹介
スタッフ系は何をやっても、社内的に評価されるわけではありませんから。
結局便利屋で終わるのか、などと思いました。
便利屋が悪いというのではありませんが、当時は何か胸を張れない感じがありました。
では、自分の専門性をどうつけていけばよいのか。
そんなことを考えている時、ひらめいたことがふたつありました。
まず、専門性は周辺に広げればいいのだ、ということです。
これは、後に「ソリティア・モデル」と名付けました。
当時自分の専門といえるものを、思い浮かべていくと、領域の関連しないものがありました。
事務用品の調達、印刷の手配、株式、不動産…、総務は幅広く担当していますから、与えられる仕事の経験だけでは、互いに関連の薄いものもあり、それが「便利屋」感になっていると感じられました。
その間が埋められればおもしろいな、と思いました。
当時流行っていたソリティアというゲームで、降ってくるマスを、凹んだところに落とせば、グリッと地平線が下がる、あの感覚で何かが生まれるのではないかと思えました。
たとえば、オフィス家具ならオフィス家具に詳しくなります。
それはそれで必要です。
そして、それを深めるだけでなく、隣接領域にも関心を持って勉強していくのです。
家具のあり方と人間の疲れ方との関係はどのようなものか、家具を調達するために使えるリース契約とはどのようなものか、といった具合です。
たとえば前に担当した不動産の知識などがあるとしたら、それとつながって、ファシリティマネジメントといった専門領域が生まれたりします。
関連づける意識がポイントです。
単にあれとこれができるにとどまっていれば、たくさんあったとしても便利屋ですが、ひとつ上の次元の専門性を生むという意識で取り組めば、相乗効果を持つ、おもしろい仕事が作り出せるのです。
]]>
私のキャリア16 若者が風を変える
http://igarashi.exblog.jp/20069506/
2014-08-25T07:59:00+09:00
2014-08-06T14:59:58+09:00
2014-08-06T14:59:58+09:00
50TEMPEST
自己紹介
時代の流れ、人のつながりが大きいです。
私は、もともと総務畑でスタートしました。
前にも書いたように、新しい会社で自分らしい仕事をしようと決めていましたから、担当する仕事ごとに、あれこれ変化をしかけました。
時代は大きく変わってゆきましたし、会社も伸びていた時期で、新しいチャンスがまわってきました。
思い返しても、いろいろできたものだと思います。
例を挙げると、
デスク、チェアをグレーから今風のものに入替
会議室の家具を、折り畳みテーブルとスタッキングチェアに入替
ワードプロセッサ(まだパソコンではなく専用機)の普及
本社ビルの増築、などなど。
総務だからやれたことばかりです。
もちろん上司が認めてくれたおかけでもあります。
担当した仕事の中で、何かを変えようと思えば、それなりに勉強は必要です。
それは本で学ぶだけでなく、外の世界を見て歩くことも含めての「仕込み」と言えるでしょう。
さて、30代半ばのある時、同年代のH君が、休眠中の社内報をリニューアルして出すことを手伝ってくれないか、と言ってきました。
当時、創業者のジュニアが次の経営者として入ってきて、彼はその秘書のような立場でした。
ジュニアも同年代。
会社に停滞感の漂っている時でしたので、彼としても、何か空気を変えようとしていたのかもしれません。
ジュニアが発行責任者で、私とH君が自由に企画し、かつ書きました。
新しい感覚の社内報は、幸い、社内に新しい風として受け入れてもらえました。
企業広報は、そのH君が先鞭をつけました。
問題の本質をとらえて打つべき手を考えるといった先見性にすぐれた仲間でした。
広報となると、外部との窓口が必要です。
組織上、窓口となるうちに、私のほうが仕掛けるようになっていったのです。
広報では、広告代理店とのつきあい、メディアとのつきあいなど、それまで知らなかった世界が広がりました。
広告代理店とのつきあいなど、それまでほとんどなかったのですが、ある時、顧客である日経新聞からの依頼で大型広告を出さなければいけなくなり、H君の人脈で、中央宣広とつきあいが始まりました。
彼らが、無から有を生み出す力、煩雑なことをまとめていく力は、私にとって刺激的でした。
また、こちらが思いをしっかり伝えるほど、よい仕事になることも知りました。
広報マンは、どこまで自分で、責任というリスクを背負えるかの仕事です。
記者の質問にどこまで答えてよいか、どこまでとんがった広告を通せるか、局面ごとに決断を迫られました。
そうしたことは、それまで会社の「あるべき姿」を考えながらやってきたことが、役にたったと思います。
また総務で幅広く経験したことで、問題意識も養われたように思います。
同業他社が、背面ヌードを使った、地道な業界にしては大胆な広告を打ちました。
やられたと思いました。
しかし、大手のひとつである自社が、それを冷ややかに見ているのではつまらない、何かできないかと思いました。
優秀な新人を採るには、こんな元気な業界があると知ってもらう必要がありますが、こちらも何かすることで、業界の認知向上に相乗効果が生まれるかもしれません。
年間計画に沿った戦略的な広告の必要を感じて、当時あった広報委員会の長である常務に相談しました。
少しふっかけた予算案はさすがに削られましたが、2億円の予算をとってくれました。
もともとお金を使わないことでは天下一品の会社でしたから、目を疑いました。
20年以上前の2億です。
それが、前に述べた毎日事件につながるのです。
]]>
私のキャリア15 企業広報として
http://igarashi.exblog.jp/20069503/
2014-08-18T07:58:00+09:00
2014-08-06T14:58:49+09:00
2014-08-06T14:58:49+09:00
50TEMPEST
自己紹介
当時、私は総務課で広報を担当していました。
新規採用で苦戦している中、会社の存在や実績を世の中に知っていただく必要があると考え、主要紙連動で、創立記念の広告を企画しました。
主要紙に一斉に1ページ大のカラー広告が、しかも創立記念日の前日に乗れば、社内に向けても、会社が変わりつつあるとアピールできます。
ところが、予算が少し足りませんでした。
日経、朝日は動かせません。
読売をとるか、毎日をとるかで迷いました。
実は、毎日新聞は大阪支社のお客様でした。
それは知っていたのですが、エイッと部数の多い読売を選びました。
何か言われるかなと思いながら稟議を書くと、社長まであっさり通ってしまいました。
一応OKをもらったわけです、「どこに出さない」とは書いてありませんが。
掲載当日、バッチリ出た広告を見て、やったぞと思っていると、大阪支社長から電話が来ました。
「あれは何だ」というわけです。
朝、毎日新聞から呼ばれて、答えられなかったそうです。
それはそうでしょう。
どんな場面が繰り広げられたか、今なら想像がつきます。
お客さんにしてみれば、腹の立つことでしょうし、会社としてそんな大がかりなことをしておいて、幹部が知らないわけですから。
冷や汗をかきながら、電話で事情を話しました。
リクルート目的であること、少しでも広く知らしめるために部数の多い新聞を選んだこと…。
電話の向こうの支社長が言いました。
「よし、わかった。大阪で持つから、直近で同じように出せ」
怒鳴りもせず、ポンと予算を出してくれました。
私にとっては、時間がずれたとはいえ、主要紙全部に出せたことになりました。
今思えば、ひどいことをしたものです。
スタッフの横暴と言おうか、営業の大変さを知りませんでした。
ちゃんと根回しして、少し予算をもらえないか、と事前にかけあうこともできたのです。
しかし、新聞にとりあげてもらったり、ちょっと気の利いたCMを出してみたり、それまでとは違うことを始めていたので、仕掛け人として、少しは私の名前を知っていてくれたのかもしれません。
もともと広報という仕事はありませんでした。
もちろん予算もありませんでした。
「うちは広告はしない」とトップが公言していたのを、少しずつ風を変えて、一時は億という単位の予算をもらえたのです。
一番最初に、大番頭である副社長の部屋のドアをたたく時は、腹をくくったものでしたが。
リスクを背負っても、一歩踏み出す仕事をしていれば、その周期はどんどん大きくなるのだと思います。
後に私が管理職候補になった時、この副社長が、「あいつはいい。あいつは自分の考えを持っている」と、真っ先に認めてくれたと聞いています。
では、どうやって広報という仕事に行きついたのか。
それは次に。
]]>
私のキャリア14 本社の回し者
http://igarashi.exblog.jp/20069499/
2014-08-11T07:56:00+09:00
2014-08-06T14:57:42+09:00
2014-08-06T14:57:42+09:00
50TEMPEST
自己紹介
入社当時は、何となく人事志望ではありましたが、こんな形で実現するなどとは思っていませんでした。
大阪には2年いました。
1年半は営業部、後の半年は総務課でした。
行った当初、「支社長のお目付けに送られてきた、回し者だろう」などと、冗談半分に言われたものでした。
定期異動というものが始まって、第一号だったからです。
しかし、皆、温かく接してくれました。
それまでの本社総務部時代とは違う、たくさんのことを学びました。
その1 自分で稼ぐという、ある意味シンプルな理屈を知ったこと。
ある地方の営業所長が、営業会議で言いました。
「あの物件とこの物件のめどがたちました。うちの店も、今年も飯が食えますわ」。
地方の工事物件は限られています。
これとこれが取れれば、店の経費と、自分の給料と、上部組織の経費が出るというわけです。
ああ、仕事とはこういうものなのだ。
地方では、こうやって稼いでいるのだと、腑に落ちました。
その2 大阪の独立の気概を知ったこと。
当時、関西国際空港を作ろうという機運が盛り上がっていました。
名だたる関西系大企業のトップたちが、その実現に向けて、連絡会を作り、人を出して活動していました。
かなりお膳立てを作ってから、建設省OBを社長につれてくるといった進め方に見えました。
東京だったら、すぐ国からの金を引き出す算段とか、政治家を抱き込む工作とか、いろいろ聞こえてきそうです。
そうでないのは、ここが関西なのかなあと思いました。
その3 本社からの文書のわかりにくさを感じ、反省できたこと。
地方で受け取る文書は、まことに舌足らずで、わかりにくいものでした。
自分自身が書く身の時は、できるだけ簡潔に書こうなどとしていたものでした。
それ自体は間違いではありませんが、本社にいると、東京という地理的なバイアスや、上層部のあれこれが何となく聞こえているという立場的なバイアスがかかっていたのです。
そんなものがない立ち位置から、送られてくる文書だけを読んだ時、「どうせいちゅうねん」と突っ込みを入れたくなるのでした。
まことに冷や汗ものでした。
その4 歴史を体で学べたこと。
営業部では、ある時期、各地方自治体に書類を提出するという仕事がありました。
また、手形などを集金してくるのも、営業の仕事でした。
営業部とはいえ、私は管理業務の課長なので、支社の事務所にいると、毎日退屈でした。
思いついて、これらの外出を引き受けました。
本来の営業マンは、本来の前向きの営業活動をしてください。
支援的な仕事は私がやります、というわけです。
おかげで大阪市内や、近郊の街々を見て回ることができました。
たたなづく大和の山々を電車の窓から眺めたり、古墳の現物を見たりすると、古代の歴史の感覚が体でわかる気がしました。
さて、支社内の人事の都合で総務課長になり、しばらくすると、本社から人事部長が来ました。
転勤旅費の規程を改定することの説明でした。
要するに、会社負担の上限を作るので、今より少し自己負担が出るとの説明がありました。
それはおかしいでしょうと、人事部長と言い合いになりました。
経費を抑えたいという考えはわかるが、これから大いに人を動かして、社内に刺激を与えようとする時、動いた者が大きな経済的負担を強いられるのでは、はずみがつきません
ある方向に水を引こうとするなら、そこに障害物を置いてはいけないはずです。
翌日、実際にあった家族帯同のケースで試算すると、少しどころか大幅に自己負担が出ることがわかりました。
これは大変と、他の支社の総務課長に連絡をとって試算してもらうと、どこも自己負担が出て、驚いていました。
改定の説明は受けながら、たいしたことはないだろうと、誰も試算していなかったのです。
私自身は単身赴任で、初期経費はあまりかかりませんでしたが、自分の経験をフィードバックすることで、転勤制度を整える情報にしてもらおう、それが第一号の責任だとと思っていたので、試算する気になったのです。
早速、この実情を支社長に報告しました。
支社長も驚き、預からせてくれということになり、この案は結局、経営会議を通っていたにもかかわらず、発表されないまま、実質廃案になりました。
当時の支社長には、感謝しています。
それまでも色々やらせてくれたばかりでなく、あろうことか、決まった案にたてつくのを聞いてくれ、したくもない社内工作もしてくれたのでしょう。
ホッとしていると、間もなくまた次の異動シーズンがやってきました。
また異動になるから、本社に行って内示を聞いてこいというので、首を洗って、人事部長のところに行きました。
何と、今度は人事部人事課長だとのこと。
けんかした人事部長の元で働くことになってしまったのです、やれやれ。
ちなみに、転勤旅費の規程は、私が着任後に作り直しました。
今思えば、私は、扉は押せば動くものと信じ、また押すのが自分の役目と考えていたようです。
実は、大阪支社長にも、大阪転勤の半年前に、たいへんな迷惑をかけたのです。
それなのに、定期異動の制度ができ、まず動かしやすいスタッフ系からはずみをつけていこうという時、稼げもしない私を引き受けてくれたのです。
キャリア形成に大きな力を果たすのは、不思議な人間のご縁です。
そのあたりのいきさつは、次に。
]]>
私のキャリア13 革新系?人事として
http://igarashi.exblog.jp/20056783/
2014-08-07T07:32:00+09:00
2014-08-06T14:54:28+09:00
2014-08-02T10:33:10+09:00
50TEMPEST
自己紹介
前半は総務時代、後半は人事時代、その間に2年間の大阪支社生活がはさまります。
人事時代は、給与体系、時間管理体制など、いろいろな改革に取り組みました。
思えば、会社も経営基盤が固まり、当時の人事部長が組織を整えていく時だったと思います。
前にも書いたように、会社を変えることに喜びを感じていましたので、充実して仕事ができていたと思います。
自分のやりたいことが、会社という舞台でできたのは、幸せなことです。
マネージャーとしては、部下たちに、改善を求めました。
わかりにくい規定や申請書類を、社員にフレンドリーなものにするといったことです。
新しいことに取り組んだ人には、年末に、「やったね賞」なるプライベート表彰を行いました。
この時もらった表彰状を「10枚ためると、座布団がもらえる」というルールでした。
人事は「ひとごと」などと言われるように、社員側からは、あまり温かい部署ではないものです。
相談しても、「それはできない」といったお役所のような答えが返ってきて、親身に相談に乗ってくれない、そんなイメージはありませんか。
会社全体を見ることが求められる部署なのですが、その目線から「N分の1」の事象であっても、その当事者にしてみると「1分の1」なのです。
その感覚を忘れてほしくないと思いました。
自分としては、それなりに勉強した時代です。
着任当初は、労働法を勉強しなおしました。
大学では法学科でしたが、労働法はほとんど勉強しなかったためです。
しかし、大学で得た法律感覚は、規定作りなどで役立ちました。
その後は、社会保険労務士の勉強をしました。
年金支給の繰り下げが始まり、定年退職していく社員に、そのあたりのことをうまく説明できなくて申し訳ないと思ったのがきっかけです。
若い部下が資格の学校に通っていると聞き、自分でコツコツよりも、今はそういう手があるんだと教えられ、自分も通いました。
いろいろあって、社会保険労務士の資格はあきらめましたが、年金に詳しくなったことは、自分のことでも本当に役に立ちました。
実は総務時代に、人のいない関係会社に手伝いに行かされたことがありました。
そこでは半年弱、給与計算、年末調整など、総務も人事も何でもやりました。
経験がまったくなかったので、明日の手続きに、前日にマニュアル本を見ながら書類を書くという始末でした。
しかし、その経験が、後の人事時代にどれほど役立ったことか。
あの経験はつらいものでしたが、人生に何事も無駄はないと、しみじみ思いました。
さて、人事に回されたのは、大阪時代、人事部長に反旗をひるがえしたせいです。
そのあたりは、次のお楽しみ。
]]>
加山雄三さんの三感
http://igarashi.exblog.jp/19708295/
2014-04-22T22:16:31+09:00
2014-04-22T22:16:38+09:00
2014-04-22T22:16:38+09:00
50TEMPEST
どこかで知った名言・至言
私のキャリア12 稼ぐ感覚を知る その2
http://igarashi.exblog.jp/19551080/
2014-02-28T09:42:00+09:00
2014-03-10T09:43:06+09:00
2014-03-10T09:43:06+09:00
50TEMPEST
自己紹介
勝手のわからないことばかりでしたが、ここから何を学ぶかが勝負だと思っていました。
アウトソーシング会社として管理部門(人事、総務、経理、後にシステム部門も合流)を別会社化し、子会社側は専門能力を活かして、本体だけでなく他の会社にもサービスを提供することで稼ぐというビジネスモデルでした。
同時に、本体にとっては人件費を変動費化し、その他の経費も経済論理にさらすことで圧縮しようというねらいもありました。
会社の立ち上げから担当しました。
会社とはいっても、管理部門の人間たちですから、どうすれば「稼げる」のか、はじめは本当にわかりませんでした。
その後、他部門や、外部から「稼ぐ」感覚を持った人が加わりました。
私の目には、彼らの発想はとても新鮮に映りました。
その会社には、本体の「一般職」という補助的業務を担当していた社員(現実的にほぼすべて女性)も転籍し、本体は「一般職」を廃止するという改革も行われ、これも、人事として私が担当しました。
人を切らずにできるリストラとして、苦心の施策だったと思います。
しかしながら、リストラであることには違いないわけです。
それまで会社は、「経営は盤石」、会社に身をゆだねて、日々まじめにやってさえいればよいのだと言っていただけに、「こういうことは起こるのだな」という感慨がありました。
やはり、自分の仕事人生は自分で築き、自分で守っていかなければいけないのです。
交流分析を学んだり、セミナー通いでたくさんの外部の人と付き合い始めたのは、その頃からです。
私は、上司に冗談で「過激派」と言われたほど、変革をしかけてきた人間です。
制度改定や問題解決に喜びを感じてやってきました。
とはいえ、管理部門、特に人事は、立場が上がるほど、調整的な仕事が増えます。
本体から離れた視点からふりかえると、何と遅い仕事ぶりだったか、と思えました。
そんな考えが高じてきて、自分の新しい立ち位置を開拓すべきタイミングになったとき、新しい事業の柱を作ることにチャレンジしようと思ったわけです。
自分のやりたいことと、会社が求めることとは、必ずしも一致しません。
しかしそんなとき、双方の方向性のベクトルが、裏表なら論外ですが、そこそこ似たものならば、そのベクトルの和(平行四辺形の対角線です)の形で、ウィンウィンの方向が見いだせると考えました。
新事業に挑戦する気になった背景や動機をふりかえってきました。
それができたのは、恵まれた立場だったと思います。
部門が子会社化されることで、それまで普通のまじめな人事屋だった自分の意識が変わったのです。
しかし、それまでに積み上げてきていたものが無駄になったわけではありません。
人事屋として、また管理職として、スキルなりマインドなり、それまでのものがあったから、自己肯定感を持って臨めたと思います。
では、そのあたりを、さらにふりかえってみましょう。
]]>
私のキャリア11 稼ぐ感覚を知る その1
http://igarashi.exblog.jp/19551074/
2014-02-24T09:40:00+09:00
2014-03-10T09:41:42+09:00
2014-03-10T09:41:42+09:00
50TEMPEST
自己紹介
たどると、その数年前に、管理部門が子会社化されたことがきっかけです。
おかげで、考え方がだいぶ変わったように思います。
まず、自分の給料を自分で稼ぐという、当然のことに目覚めたこと。
ずっと管理部門育ちでしたから、頭ではわかっていても、事業会社になることではじめて、その大変さ、またそのためにはどうすることが必要なのかがわかりました。
次に、武器としてスキル、経験を積む必要を再認識したこと。
財務は万全だから安心して身を任せていなさいと、会社側は言い続けてきていましたが、首を切られたわけではないとはいえ、どんなことも起こりうるのだ、自分の身は自分で守る必要があるのだと、あらためて思いました。
もうひとつ、チャレンジすることの面白さを感じたこと。
会社を回すために、経営的な視点からあれこれと試みることが増え、何かやって結果を生むという刺激的な感覚に慣れていきました。
苦闘しながらも、ふと気づくと、子会社側は少しずつでも意識が変わり、変化を求められなかった本体側の意識は昔のままでした。
まして、外部の人たちの感覚を知ると、育った世界の時計の回り方が少し遅いように感じました。
多くのサラリーマンは、ある年齢になると、自分のサラリーマンとしてのゴールのイメージを持つと思います。
私もひとりの人事屋として、多少へそ曲がりで改革派とはいえ、大枠ではまじめなサラリーマンでしたから、最後は人事部長ぐらいにはなれるかな、などと思っていました。
それが、子会社化によって大きく変わりました。
思い浮かべた形にはなりませんでしたが、逆に世の中を知ることができたし、たくさん学ぶことができました。
むしろ、幸せだったと思っています。
何を学んだのか、次で、少しくわしくみていきます。
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/